2010年(平成22年)9月1日にアップ
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
南アフリカ・コムラッズレポート
☆☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
■ショショローザ(Sho−Sholoza)
2010年(退職目前の)1月私が南アフリカに行くことを知った映画に詳しい同僚が「南アフリカに行くなら今上映中の
インビクタス
を見たらいい。」と教えてくれました。映画館も比較的に職場から近いし上映時間もチェックし日程までいれたのに、3年生の担当で退職を前にした慌ただしさで見に行くことができませんでした。何度か日程を入れてもまたダメを繰り返しとうとう見るチャンスを逃してしまいました。
成田からヨハネスブルグまでの長いフライトの中では映画を見るのが一番いい。そのメニューの中にインビクタスがあったのです。大統領ネルソン・マンデラを主人公にした映画でした。 英語版でほとんど聞き取れない中でその映像の中で大筋のなかみはわかりました。南アフリカに関するいろいろなことを勉強してからの旅としたかったのですが、ほとんど知らないで飛行機に乗ったも同然でした。
コムラッズマラソンを完走するのが大きな目標のツアーでしたが観光地巡りも精力的にやりました。8回連続コムラッズ完走している走る添乗員として有名な慎ちゃん(高橋さん),アメリカ横断4966qを完走したり,さまざまなウルトラを完走している「鉄人」越田さん,ヨーロッパなどの大会に出てコムラッズ大会後にスイスを走っ
〔ヨハネスブルク空港〕
たオランダ在住の池田さんと私の男だけ4人のツアー(参加予定の若い女性も危険情報に家族の猛反対で断念。)となり,皆非常に元気。私が一番の年上。国境越えランニングなどをまじえて,かなり強硬なスケジュールでした。その中で私は特に南アフリカの音楽に関しても知りたいと思っていました。 私達の案内人Ndaba Ncubeさん(もちろん黒人)に,「南アフリカで一番歌われている唄は何ですか」と聞きました。車の中でです。助手席に乗っていた彼は後ろ座席に身を乗り出して心を込めて力強く歌ってくれたのです「ショショローザ」。
この歌は「働く労働者」の歌で南アフリカで知らない人はいない。と教えてくれました。簡単な旋律で私もサビの部分をすぐに覚え口ずさみました。
■思わぬ展開
2日目Zimbabwe(ジンバブエ)のビクトリアフォールズ
Hotel Mercure Rainbow の夕食は大変楽しいものになりました。そして思いも寄らないハプニングでこれからの旅に難題を抱えこむことになったのです。音楽ダンスが好きな私にとって夕食も盛り上がったところで地元の音楽ダンスグ
ループが演奏を始めました。もちろん黒人で民族衣装と楽器は太鼓だけ。マイクもなく体が楽器の如くいい声を響かせます。
独特な指笛も交えました。私は案内人Ndaba Ncubeのさんが歌ってくれたショショロ−ザをリクエストすると喜んで歌い始めました。素晴らしいハーモニーで歌ってくれました。 一緒に踊りの輪にも誘われ楽しみました。
この人達の音楽CDがあったら買いたいと思ったら,やはり売るために持っていました。値段も手頃。迷うことなく買いました。今回の南アフリカ行きでできたら,南アフリカでだれもが知っている歌を知りたい。そして私達のバンド「ゆい」のパーカッションとして使えるものがあれば手に入れたい、と考えていました。 music and dance groupが使っている太鼓がよい音を響かせていました。私はメンバーにダメもとで,この太鼓譲ってくれるか聞きました。すると50ドルで譲るというのです。1ドル約100円ですから日本円でなんと5千円です。お茶の水の楽器屋に似たようなものがありましたが、手が出せないものでした。試しに値切り交渉をしました。すると20ドルでokときたのです。
2千円です。この手作りのアフリカの音をこんな安く手に入るとこれはいい買い物だと「買います。」とその場で交渉成立しました。ツアーの仲間4人と他の観光客との交流を盛り上げてくれた唯一の楽器を手に入れることができたということが大変貴重に思えたのでした。
しかしこれが,これからの旅に大きな問題を背負うことになったのです。
※ショショローザ(Sho−Sholoza)に関して調べてみた。
○この歌は重労働の際に、今でもよく唄われる歌である。事実として、この歌は厳しい状況下で生まれたものである。
○「南アフリカの試合で歌っていた君たちの歌は何なの? 今日も歌っていたみたいだけど」と。
彼は「そう! 試合前だろ!?」と待っていましたと答え始めた。「あれは『ショショローザ(Sho−Sholoza)』といって、鉱山で働く労働者が歌っていた歌なのだ」。ここで僕の頭の中に“友の形見のヘルメット”がリンクした。いろんな思いが詰まった歌なのだろう。僕は彼にその先の説明をせかす。「この歌はね、ほら、昔南アフリカは黒人が白人に……」。どんどん話が核心に近付いてきた
■浅はかな買い物
予想もしない,魅力的な楽器を手に入れることができて満足している私に,ベテランの添乗員でもあり海外旅行開発株式会社の社長である高橋さん(海外マラソン61回完走)が,にニコニコしながら「菊池さん,太鼓は重くて,大きいですね。」と言いました。私はその言葉にハッとしました。浅はかにも全く先の見通しもなく欲しいから手に入れた,ことに気がつきました。まだ旅が始まったばかり。ひと抱えもするあの太鼓を
これから持って行かなくてはならないと考えただけで,「これは無理だ。」と思いました。特大の旅行スーツケースにリュック,大きめのウエストポーチと持つゆとりなどない。他の3人の仲間は旅慣れしていて,アメリカ横断した越田さんは大きめのリュック一つだ。なぜそんなに少なくていいのと聞くと,いろいろ工夫していることを教えてくれた。
「皆さんに迷惑かかりそうだから,あの太鼓欲しいけど放棄してもかまいません。」と言うと,高橋さんが「..ん,何とか持って行けるところまで持っていきましょう。」
そして他の仲間も,「あれは価値ある太鼓だから、是非日本に菊池さんが一緒に持ち帰ってよ。」と励ましてくれました。2000円だけど日本まで荷物で送ったら高い買い物になってしまう。高橋さんが,ホテルのスタッフにこの太鼓を荷造りして欲しいと注文しました。高橋さん本気だ!と思い少し希望がもてました。段ボールで荷造りされたものをホテルのスタッフは自信ありげに持ってきてくれました。しかし持つところがない。
再度注文して,頑丈に手で持って運べるようにしてくれました。とりあえず持ちやすくなった!
とにかくまず,ジンバブエの空港が第一の関門になりそうだ。飛行機の荷物制限機内持ち込み以外一人20キロ。私の荷物は明らかにそれを大幅にオーバーしている。
■段ボールに包まれた異様な荷物
日本の地方空港程度のジンバブエの国際空港ビクトリアフォールズ空港では、だいぶ待たされましたが、何とか無事通り過ぎることができはました。しかし手荷物でチェック。リュックの中を全部調べられ万能ナイフが出てきました。没収されてしまいました。でも小さな空港でも安全面で厳重にチェックされていることを知り安心しました。 ヨハネスブルグ経由ダーバンと一日がかりの移動となりました。ダーバン空港に到着しあの大きな太鼓が割れ物扱いで丁寧に別のところから出てきて受け取ることができました。段ボー
ルに包まれ異様な形をした太鼓も,一緒に空を飛んできたと思うと単なる物だけれどいとおしくなってきました。
ダーバン空港が見違えるほど立派になっていると高橋さんが驚いていました。利用者用が使う荷物を運ぶカートも新品ぴかぴか。成田空港よりも綺麗でした。ワールドカップを目前にして準備完了といった感じだった。ホテルからの迎えの車がきてくれたけれど、4人の荷物が入りきらない、あの太鼓のためでした。私と池田(アムステルダム在住)さんが座席で抱えることで何とか入れることができました。「申し訳ないですね。とんでもない荷物で。」と私。皆さん気持ちよく運ぶのを手伝ってくれました。ダーバン空港からホテルまで結構時間がかかりました。途中に完成したばかりのサッカーワールドカップの会場も見えてきました。やっとダーバンのシティーロッジダーバンホテルに到着しました。やっとついた安心感からか,一日がかりの移動でどっと疲れが出てきました。
■失礼をしてしまった。
ダーバンで合流したもう一人のベテランランナー國府さんと初対面。この方がめっぽうお酒に強いという。しかし今日ははやく眠らないとコムラッズまでの体調が危ないと、大変失礼をしましたがその日は,はやく休ませてもらいました。後になって「昨日は大変失礼しました。」と言うと,國府さんが「旅の途中遠慮しないで言ってもらってよかったですよ。」とおっしゃってくれました。皆さん本当に心の広い方ばかり安心しました。思わぬ太鼓という大荷物も4人の協力でダーバンまで持ってくることができました。しかし私は場合によってはいつ放棄してもよいと心に決めていました。ダーバン入りしてから観光気分が次第に消えて第85回コムラッズマラソンのムードが高まってきました。ここでの4泊はしばらく太鼓のことは忘れることにしました。高橋さんとのあい部屋で二つのベッドの境目に「寝かせて」、見えないようにしておくことにしました。その翌日からコムラッズの雰囲気がダーバン市内で一気に高まってきました。食事はおいしい、よく眠れるけれど毎日のようにビール、ワインでの楽しいミーティングが続いたのでスタートに立つまで体調を整えるのに少し不安を感じていました。
■コース下見
翌日に89.28qのコース下見がありました。大会から用意された大型バス3台に乗り込みました。高橋さんの案内で一番前の座席に座ることができました。日本人が少ないからまわりは英語を中心に外国語が飛び交っています。英語のわずかな単語は聴き取れても内容まで詳しくはわからない。でも懐かしく再会したものどうし,またコムラッズにこられたという喜びでバスの中は明るい雰囲気だけは感じ取れました。
■近藤さん
その中で一際目立つ日本人女性がいました。日本の南アフリカ大使館の職員である近藤さんです。日本のコムラッズアンバサダーとしてコムラッズを支えている日本人スタッフでした。まわりの外国人からも頼りにされているようで,英語での会話が自由自在。私も今回エントリーするときにお世話になりました。このときが初対面でした。コムラッズに参加する日本人の情報はこの人に聞けばわかりました。 「私をコムラッズ誘った今泉さんは来ていますか。」「来ていますよ。必ず会えると思います。」というように。
■恐い坂道
89qの下見はバスでも長い。その間イギリス人のコムラッズスタッフと思われる人が詳しい解説をしているようでした。ほとんどしゃべりつづけで,私の目の前で大きな体から出る声も迫力があって聞いていて快かったけれどここでも語学力の不足を痛感させられた。何回か笑いが起きるのにそれについていけなかった。
コースは 陸側のピーターマリッツブルグからスタートして海側のダーバンにゴールですが下見のスタートはダーバン。 標高差810m以上で全体としては下りなのだけれどアップダウンが多く下りを余り感じさせないコースだと紹介されていました。確かにそのようなコースだけれど,70q過ぎに長い下り坂が何度もやってくるのが気になりました。念のためにおわかりかと思いますが大型バスが走れるコースです。全コース舗装されたきれいな道でした。 後半でその下りを失速することなく走ることができればよいのですが,走れなくなる程膝を中心に足が動かなくなることを何度も経験しているので,そういう
中での下り坂は上りよりきつい。「下り坂恐し。」の感を強く持っていました。それに私が今まで足のトラブルはすべて坂道を下るところで起きています。ゴールしたが歩けなくなって.....という悪夢がチラット頭をよぎりました。
■東京マラソンを超えている
再びダーバンに戻りいよいよ大会の受付会場に向かいました。音楽がガンガン鳴り雰囲気を盛り上げていました。もうすでに多くの人が来ていました。東京マラソンの受付は東京ビックサイトです。いろんなメーカーのブースが用意されますが,コムラッズはそれ以上。何回も完走している人を英雄として丁重にもてなす特別なエリアがあったり歴史を感じることができるものでした。品物も豊富で,たとえば各ペースごとの関門での時間をどのくらいのペースで走ればよいか記録された腕輪などがありました。私は11時間のペースの腕輪を買いました。ただ受付までの時間にどうしてこんなに時間がかかるのだろうと思うくらい待たされました。かしこれが南アフリカのやり方,イライラしないで順番を待ちました。高橋さんが横についていてくれたのでスムーズに受付ができました。日本のマラソン大会と同じように大会要項とTシャツそしてメーカーからのお土産がはいったコムラッズバッグ。なかなかいい物でした。
■ゼッケン番号 D49994
ゼッケンを手にしたときこれでいよいよコムラッズマラソンのスタートラインに立てるのかという実感が迫ってきました。これは日本にいるときにこの番号はわかっていたのですが余りにそろった番号そして意味ありげな番号,和島さんにこの番号を知らせると「前向きでいきましょう。」と励ましてくれました?その意味は何も言わなくても理解していました。絶対忘れられない数字になりました。女房に知らせると「父ちゃんは1949年生まれ 49が後ろと前でいのじゃない。」Dは東京マラソンと同じようにスタートエリアで厳重に守られていました。
■前日
ダーバンの市内をユックリ見物しました。この内容はホームページで紹介します。何とか前日まできた。できるだけ早く眠ることが重要でした。ウルトラではめずらしくないのですが,朝が早い。朝1時起床3時ホテル発 バスで約50分スタート地点。荷物を預ける準備,寒さ対策 トイレなどスタート5時30分までにやらなければならないことがあります。
「あっ!忘れた。」が多い私にとっては,それが大変に思えました。その中でも明日の競技で完走するための自分なりの作戦を考えました。まず坂道下りは膝にできるだけ衝撃が少ないような走りをする。場合によっては歩きもよし。そんなことを考えましたがやはり不安。そうだ東京マラソンでも頑張れたのが応援で助けられた。自分を応援してくれるようにするにはと考えたのがJAPAN。でした。早速フロントからマジックペンを借りました。油性であることを願ってペンを見るとmade in JAPAN。白いユニフォームに大きく後ろと前にJAPANと書き込みました。これで何か落ち着きました。もう相部屋の高橋さんは快い寝息をたてて眠っています。私もごそごそとやっとベッドに入ることができました。もう 11時近くなっていました。
■夢のスタートラインへ。
「菊池さん時間ですよ。」「もう少し眠たい。」そんな会話で始まりました。ホテル内はもう人が動いていました。客のほとんどがコムラッズ関係。まだ外は闇に包まれている。 外は少し肌寒い。そうだここ南アフリカは南半球。日本と逆の季節夜明けも遅くなってくる秋から冬に向かう季節なのです。ダーバンの市内はこの時間に動き出すのはランナーしかいない。スタート地点までランナーを運びバスが何台も到着していた。まだ眠たそうな雰囲気の中にスタートラインへ向かう緊張感が漂う。一番後ろの席で少しでも寝ようとした。到着するともうすでに多くの人が行き交っていた。まずはトイレを確認した。日本のイベントでも使われる仮設トイレがセッティングされていた。どんなトイレかトイレットペーパーがあるのか。入りました。皆いわゆる洋式。やはり皆大きいからか座るところが大きい。ペーパーはあった。荷物預けもスムーズにいき,日本人のツアー仲間と添乗員でありランナーの高橋さんとお互いの完走を誓って別れる。まわりに日本人は誰もいない。言葉も通じない。肌の色から髪の色から何から何まで様々。人という生き物の多様性を感じた
。 スタート前の昂揚と雰囲気はあのホノルルマラソンに似ていた。しかしスタート直前に大合唱が始まった「shoshol−za」大きな声が響いた。 そしてスタートの号砲がなった。(大砲の音だという)
スタートラインに立つ直前
オーストラリアのランナー,コアラの人形を私にくれた。スタートラインに立てた喜びで興奮
いよいよ動き始めた
走り始めた
■スタートできた!
まだ暗い道を走る。大会主催者から配られた防寒着を着る。Tシャツを2枚途中で沿道の人に渡すために準備した。大きめのウエストポーチには適当に買っておいた何種類ものエネルギーサプリ。デジタルカメラと荷物が多い。まわりのランナーは皆身軽だ。12時間制限だから11時間を目指しました。まだ暗いのに沿道には応援が繰り出している。今サッカーで知られたあのブブゼラの音も響き盛り上げてくれる。途中Tシャツを黒人の女性に渡した。夜が明けて少し暖かくなってきたところで,防寒着を脱ぎ捨てた。いよいよコムラッズウルトラのゴールを目指して走ることに専念できる状態になった。JAPANのユニフォームもしっかり見えるようになった。
■ウルトラマラソンに大男のペースメーカーランナー
走り始めるとしばらく眠くてしょうがなかった。体がまだ眠っているのか。しかし夜明けと共に気温も上がりはじめ朝日が差し始めていよいよマラソンが始まったというかんじだった。下り坂は丁寧に走った。1キロごとの表示が待ち遠しい。この表示は「あと何キロ」という表示「あと89q」から1キロごとに「あと88キロ」と続いた。ランナーにとって励みになる表示だ。とにかくアップダウンが比較的同じような調子で繰り返される。そしてエイドステーションは食べ物の補給だけでなく,スタッフも多いがそれ以上に応援の人の歓声と音で賑やかだ。そして私のゼッケンを見るや「JAPAN!」「Welcome Japan」の声援に驚くと同時に力を得た。すぐ調子に乗る私はこれを頼りにすることができた。しかし50キロを過ぎてどのランナーも苦しくなる。そんなとき大きな旗を立てて一団となって走っている集団に吸収されてしまった。11時間のペースメーカーと呼ばれる人がリードしている一団だった。 日本の市民マラソン大会でもフルマラソンでペースメーカーのランナーが走ってくれることはある。しかしウルトラマラソンでは初めてだ。しかもそのランナー背も高くがっちりとしてウルトラを走りきれるのかという体形をしている。とにかくまわりにいる人も私から見れば大男ばかり。その一団に入り走った。とにかくそのリーダーが凄い。何か大声を出して常にまわりの皆を励ましている。そしてスリー,ツー,ワン,ゼロという合図とともに,急な坂道をランニングからウォーキングに切
り替えた。それもしっかりと大幅なウォーキングで私などは時々小走りを入れなければついていけない。 疲れたからウォーキングではないのだ。予定通りのウォーキングをして11時間のペースをつくっているのでした。こういう走り方もウルトラでは初体験でした。前へ前へと進むそして適当なウォーキングの後またリーダーが何事かかけ声を出しス
リー,ツー,ワン,ゼロとランニングへ切り替え。エイドステーションに近づくとそのリーダーと一団に対して英雄の登場のようにひときわ高い声援と拍手が待ちかまえていました。とにかく完走させるための雰囲気が素晴らしい。きっとこれがコムラッズマラソンの素晴らしいことの一つなのだと思いました。少し頑張れそうなので,あと10キロ当たりから11時間ペースメーカーの一団から抜け出し積極的にゴールを目指すことができた。あの長い坂道では歩く人も多くなってきたが,私は何とか足が動いた。高速道路のコースにも応援の人。高い橋の上からも「JAPAN!」もう頑張るしかない。 やっと坂道を終えてダーバン市内に入る。何とそこからラストスパートのランニングができた。ごぼう抜きのランニング。ウルトラマラソンのラストでこのような走りができるのがうれしかった。それはきっとあの11時間のペースメーカーランナーのお陰だと思いました。市内にはいると鈴なりの応援が凄い。スタジアムに入る。もうオリンピックの選手気分。ぎっしり詰まった応援席からのどのランナーにも送られる声援。12時間放映のテレビのアナウンサーの声とこれほど沸き立つゴールも初めてでした。ゴールした!!私はゆとりなかったが,近くのランナーが握手を求めてきた。みんな苦しさを乗り越えてきた仲間たちだ。
■有森裕子さん
完走できた!もうその達成感でうれしくて昂揚していた。その後どうしたらいいのかも余りわからず流れに沿っていくと,「外国人ランナーと言うことで外国人テントに案内される。」 まわりを見ても日本人らしい人はいない。とにかく着替えをしてからまた探すと,近藤さんを発見。完走して話しでわいている人達の間を通り抜けやっと日本人に会えた。そして私の目の前に有森さん。「おめでとう御座います。初めてですか。」と握手を求められたのでした。御存知のように有森さんはかすみがうらマラソンでも毎回の招待選手。選手だけでなく幅広い活動をされている。バルセロナオリンピック,アトランタオリンピックで銀銅メダルを獲得している。フルマラソンを2時間20分台で走っていた。そして今社会活動でも地球的規模の大きな仕事をされている。私は遠くから眺めている今も輝くランナーでありました。そして今ランナーとして新たなチャレンジをしている姿を目の当たりに見て「凄いことだ!」思いました。こんなところでお会いできるとは思いませんでした。「ランナーは皆仲間です。」と分け隔てなく話してくれた。そして有森さんがこのコムラッズを完走することとチャリティー活動を結びつけていることも知りました。この6月には国際オリンピック、女性スポーツ賞
(この賞は、女性のスポーツ参加などに貢献した関係者や組織に贈られるもので、五大陸で一人ずつスポーツ賞受賞者を選出しますが、日本人が受賞するのは初めてだそうです。)
を受賞するなど素晴らしい活動をしている人です。http://animo.aspota.jp/
とにかく手放しの喜びをする有森さん。有森さんの記録が10時間49分20秒,私の記録が10時間50分12秒 だからどこかで併走していたかもしれません。3度目のチャレンジで有森さんは完走しました。有森さんは完走するにはどうすればよいのか,完走した人に聞いたそうです。ランナーとしても謙虚な方だと思いました。
アムステルダム在住の40歳代の池田さんが9時間35分52秒,アメリカ横断の58歳の越田さんが9時間55分24秒,と凄い記録です。因みに男子のトップは5時間20分41秒,女子は5時間54分43秒でした。
〔有森裕子さんと〕
とにかく走ることに関してもこのコムラッズでは大きなことを経験し学びました。足の調子も悪い体調も悪いといっていた高橋さんが完走で戻ってきました。9回連続完走の快挙,ベテラン國府さんももう何度目の完走になるのでしょう。そして膝を痛めて今回は無理かもと弱気でいた今泉さんも完走で戻ってきました。日本の女性で連続8回完走の快挙,数少ない日本人の輪が活気づきみな充実感で満たされました。その間も12時間の制限時間を目指して続々と走り込んでくるランナー,カウントダウンで制限時間外のランナーは悔しさを体いっぱいに表しました。暖かい声援が最後のランナーまで続いていました。昨年スイス旅行でたまたま添乗員として一緒になった今泉さんが開口一番「コムラッズ」を教えてくれた気持ちがわかりました。もっと日本から近かったら。 高橋さんが「菊池さん,本当の完走は来年のダーバンからの逆コースを完走してコムラッズ完走と言うのですよ。」とニッコリ。ゼッケン49994は永久に菊池の番号になっている。とかコムラッズのリピーターにさせるためにいろいろ考えられている。そして何より,どんな状態であろうとも走る,歩く選手を尊敬の思いで応援してくれる,そして違った意味でコムラッズがあるから食べ物にありつける子供達が待っている。さてコムラッズ貯金でもして準備しょうかと言う気持ちになってきた。
〔85コムラッズ仲間 越田さん 池田さん〕
■充実感,達成感の後は
あれだけの下りの坂道を走り続けたのに足へのダメージが少ない。スムーズに歩けるのがうれしい。ホテルに戻ると足を引きずりながらの外国の仲間たちとすれ違った。皆気持ちは一緒だ。ホテルに戻ると日本に帰りたい気持ちが強まってきました。越田さん,国分さんは明日早くにケープタウンへ観光の旅が続きます。そのタフな体と精神力に感心しました。私より先輩の國府さんのスケールの大きな話しにも元気をもらった。しかし私は翌日ゆっくり眠って帰国の途につけるのが有り難かった。そして旅立ちのための荷物整理に入ったところで,あのターバン到着以来私の目から見えないところで「横になっていた」
太鼓の姿が現れた。 あーそうか。難題がまだ解決していない! 疲れた体にこの
太鼓の大きさと重さは以前よりも増したように思える。完走祝いの夕食の折,再び私が「太鼓は持っていくの無理なら放棄してかまわない!」みんなに話すと「これまでみんなでここまで持ってきたのだから,何としても日本に持ち帰ってよ。」と皆さん。身軽な越田さんが「私が買い取りケープタウン経由で名古屋に持ち帰り,売りに出しましょうか。」と半分真剣に話してくれた。 高橋さんがこの太鼓を追加料金なしに荷物として飛行機に積
み込む作戦を考えてくれた。池田さんはヨハネスブルクからアムステルダムに向かう。日本に向かうのは私と高橋さんの2人だけだ。一人20キロの制限だけれど2人合わせることもできる。2人で40キロになるようにすればよい。高橋さんのこれまでの経験を話してくれた。多少のオーバーは見逃してくれるから飛行場の荷物チェックの係官の機嫌を損ねないように対応しよう。高橋さんの旅行カバンは私と同じくらい大きいけれど
見事にガラガラで軽い。私のカバンは重い。お土産は極力機内持ち込みバックにしてもあの太鼓と合わせれば「多少のオーバー」では済まされないような気がする。「ダメといわれたらどうすればいいんですが。」と私「素直に従い,捨てることができるのは捨てる。そして私の別のバックに詰め替えていく。」高橋さんが用意した機内持ち込みようバックも大きい。これが機内持ち込みダメと言われればおしまいです。ダーバンを通過すればその荷物はヨハネスブルグ→香港→成田と飛行機に乗り継がれて成田まで運ぶことができる。ダーバンを突破できればいいのだ。
いよいよダーバンの荷物チェックの列に並びました。少し緊張します。高橋さんがどのように交渉するのか。なにやら係官に話しています。荷物を重量計に載せるように指示されました。高橋さんの旅行バックそして私の旅行バックそしてあの太鼓順番に乗せました。厳しい表情で16キロオーバーだからダメ。ああやはりダメか。素直に従い作戦通り高橋さんのもう一つのバックに私の旅行カバンをその場で開けて重い物から移していきました。「何故こんなたくさん持ってきたのですか。菊池さん旅行慣れしてないな。」とつぶやく高橋さん。恥ずかしかったけれどしょうがない。使った衣服をまず捨てる。コムラッズマラソンバックのお土産で瓶類など捨てる。何とか減らしたり移したり必死だった。池田さんが捨てる役割をやってくれた。よし2度目の挑戦。大夫減らしたけれどまだ重そうだ。同じ係官のところではかってもらう。「6キロオーバーダメ。」ときた。これは絶望的か後減らすとしたら,下着以外の物を捨てなければならない。さらに高橋さんのカバンに詰められるだけつめた。よし3度目は隣の係官の所があいたのでそこに持っていく。同じように計量した。高橋さんと私が固唾をのんでその係官の言葉を待った。なにやら計算している。考えている。そしておもむろにハンカチを取り出し鼻くそを取り始めた,私達2人がじっと見ているのに平気な顔して続ける,次に違ったほうの鼻くそをとりはじめる。何を意味するのだろう。高橋さんと思わず顔を見合わせてしまった。沈黙が続く。そしてその係官はその動作の次に太鼓にそして私のカバン高橋さんのカバンにあの空港独特の荷札を付けてくれたのだ!「やったぁ!」心で叫んだ。そして太鼓は「サイズが大きいから特別に扱う窓口に行くように指示された。」そしてカバンと太鼓が荷物として認められた。「よかったぁ!」みんなで運んできたあの太鼓が日本まで一緒に行くことができる!!
(City Lodge Durban Hotel
チェックアウト直後,太鼓とともに
)
■ビールとワイン
ヨハネスブルクに到着してアムステルダムに向かう池田さんと別れた。嫌な顔一つせず私の荷物をゴミ箱に捨てることをやってくれた。難題も解決してやっと気持ちも軽くなった。最後の機内ビールとワインで乾杯。そして長い機内で再び映画を見ようとメニューを見るとまたインビクタスがあった。これは往きの時に見たインビクタスと違って日本語版だった。往きに見た英語版でわからない会話がはっきりわかり納得しながら見ることができました。弱い南アフリカの白人中心のラグビーチームが解散に追い込まれそうになったとき,ネルソン・マンデラ大統領が黒人と白人が共に国を作るのに協力しなければならないと説き弱いラグビーチームを全国民で応援する雰囲気を作るのに全力を挙げそれに応えて選手達が一丸となって優勝戦に挑むというあらすじです。最後には自分の国のチームを黒人も白人も一緒になって応援することができるようになった。そのラグビー会場で響いた歌をはっきりと聴き取ることができました。「ショシヨローザ」でした。
私は往きの映画ではこの歌を知らなかったけれど,このアフリカの旅で南アフリカの人達の思いが込められた歌としてあのNdaba Ncubeさんが車の中で歌っている顔と映画の中の「ショシヨローザ」そしてあのコムラッズマラソンのスタートの時参加者の力強い「ショシヨローザ」がダブって聞こえてきてジーンとするものがあって。南アフリカコムラッズをこの歌で忘れられなくなりました。
■成田空港着
無事着陸。荷物受け取りのフロアーに移動して回転してくる荷物を待ちました。大きなカバンは出てきました。太鼓は出てきませんでした。空港の係の人に尋ねました。すぐに調べてくれました。その方が指す方向を見るとあの太鼓がありました。成田までとうとう持ってくることができた。2000円で買った太鼓だけれどもうお金に変ええがたい私の宝物に見えてきました。高橋さんと別れてから,その太鼓を持ってみて手に食い込むような重さに耐えながら自宅に持ち帰ることができました。「何またそんな物を買ってきたの!」と女房様に怒られると思いきや「あらっ調度品にいいんじゃない。」と意外にもダチョウの卵とともに気に入ってくれたのでした。「ああよかったぁ!!」
おわり
メモ 2010.10.01有森裕子さんとの写真などアップ。一部アップできなかった。