福島 
一人旅  
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  2014年(平成26年)7月16日(水)~7月18日(金) 
 ハワイ滞在後の福島。前回お世話になった民宿一番星に向かった。最初に宿泊したときからまた行きたい場所になっていた。福島原子力発電周辺が心配だ,今どのようになっているのか,自分が今できることはないか訪ねる旅だ。ここにいる人との交流でまた何かが始まりそうだ。  
【旅を終えて】今回短い滞在だった。しかしハワイでも福島でも共通している事は人との出会いの旅が自分に一番あっていると思った。特に福島南相馬ではギリギリの困難から何とか立ち上がり新たな一歩を踏み出そうとしている人達と出会った。自分自身が励まされる。外からきているものが何かできるものはないか。それは時間をかけて見つけ出すものだと思った。また行こう。 
7月18日(金)
・午前9時前に一番星を出た。そして取手に着いたのが14:54,約6時間のドライブだった。妻と二人のドライブは楽しかった。妻も免許を持っていたから,私が疲れたら変わってくれてだいたい毎時80㎞から100㎞の安全運転,そして私がだいたい120㎞で追い越し車線で距離を稼ぐ。おやつが助手席から出てきて会話をしながらのドライブ。どこまでもいけると思った。いずれは二人で何泊もするドライブの旅もするつもりだった。そんな事を考えながらの一人ドライブ。いつの間にか130㎞でていた。愛車タントは軽自動車だけれど安定していてスピード出しても恐怖感がない。でも何かあったらおしまいだなとスピードを落とした。今回危険な事はなかったが,,,,。
・夕食朝食と田舎料理というか昔のお袋の味のような料理が楽しみだ。「菊池さんご飯ですよ。」と声をかけてくれるのもうれしい。そして朝食の後は美味しいコーヒーを出してくれる。
・よく眠れたけれどずーっと雨の降る音が耳元で響いていた。朝もどんより,天気予報はこれから激しくなるという。涼しくて避暑にきたようなものだが私が来る前日まで猛暑だったという。 
7月17日(木)
・若いスタッフ佐藤さんと3ヶ月ぶりに同じ場所とさらに違ったところを案内してもらった。3ヶ月間に確かに復興は進んでいる。人の流れが多くなっている。それは避難区域に戻ってこようとする住民の動きもあるが,除染作業,原発関係の作業員のための施設の建設が続々と続いている。佐藤さんの「ここも帰って来る準備している家です。」という声にはうれしさがにじみ出ているように思えた。相馬野馬追,来週の26日27日28日の準備で多くの作業員で境内を整備していた相馬小高神社を始め案内してもらった。
大悲山大蛇物語
・夢のある変化をみた。何と敷地内に屋久鹿とアルパカが飼育されていた。ニホンジカの中で一番小さな屋久鹿と日本には珍しいアルパカ。私も間近に見ること初めてですっかり気に入ってしまった。何と優しい顔,大きな目その名前は,トリニティーとオーソン,まだ3年も経たない民宿一番星が描いている夢を想像している。若いスタッフがその難しい飼育に挑戦している。復興にかける力を感じる。
・一番星,お風呂も完成しているかと期待ていたがまだ完成していなかった。このことが今の福島南相馬の現実を語っている。でも3ヶ月前とは違って大きな立派なお風呂の全体が見えてきた。次の楽しみにしよう。
アルバム2014.07.17福島2回目の訪問
7月16日(水)民宿一番星に午後7時頃到着,自宅を10時頃出てからだ。途中道に迷い集中豪雨に見舞われた。無事についてホットした。民宿のご主人奥さんの温かい出迎えを受けた。「今日は菊池さんだけです。」私ののぞむところです。静かさのなかでビールを飲みながらご主人とのお話は3.11からの生活の変わりぶりを振り返り,これからここの場所から何ができるのか長く楽しく続けられる復興の話しで盛り上がった。ハワイの話しも聞いてくれた。
・常磐道の終点から120㎞の迂回路の放射線量計はカチカチとはたらき続けた。わかっていることだけれど3ヶ月経っても変わっていない。除染の旗が今もはためいていた。そしてラジオのニュースでは「鹿児島の川内原発、安全審査に『合格』 原発抱える町は複雑な反応」を伝えていた。 線量計をもって自分の住んでいるところからここ福島原子力発電近くまで来てみればきっとその深刻さが実感できるだろう。
  2014年(平成26年)4月23日(水)~4月26日(土) 
 妻が亡くなって以来一人旅を始めた。二人分を一人で!妻が背中を押してくれている。マルタ,南アフリカ,ブラジル,コロンビア,韓国。体と頭が充分はたらくときに海外へという気持ちが強い。海外から見た日本,そこでの生活は安全で安心そして快適だ。しかし今日本で起きていることに大変不安を感じている。この不安は日本だけにとどまらないことだと認識している。日本は広島長崎の原子爆弾に続いて福島での原子力発電事故が起きた。いずれも核エネルギーによる。3年を過ぎ「原子力発電事故は収束した。完全にコントロールできている。」と日本のトップが世界の舞台で言い切った。大丈夫だろうか?日本の素晴らしさとともに今の日本・福島の被災地がどのようになっているのかを知らせなければという思いが常にあった。やっと福島に行く機会を得た。あてはないけれども被害に遭った人達から直接お話を聞きたい。そしてこれから長く交流できる人との出会いを期待して,まずは原子力発電所から約30㎞と近い南相馬にある農家の民宿に向かった。自宅の近くを通る生活道路国道6号線から常磐自動車に入り北上しできる限り福島原子力発電所に接近したコースを選んだ。(4月23日)
 
4月23日(水) 茨城県取手の自宅を愛車タントで出発。国内の旅は電車が一番だ。車窓を眺めながら缶ビールとつまみがあれば気持ちよい。しかし今回はどうしても車が必要だ。放射線量計で私の住居から福島原子力発電近くまでの放射線量がどのように推移するのかを知りたい。
 常磐富岡を過ぎて放射線量が取手では記録したことのない記録,中レベルの表示
窓を開けると跳ね上がる,どんどん上がる1.04μシーベルト。
アルバム2014.04.23福島南相馬市へ 
4月24日(木) 落ち着いた民宿。九州の田舎を思い出すような農家の家のつくり。和室の畳の香りのする部屋でぐっすりと眠ることができた。食事も田舎料理を思い起こす美味しいさで気にいった。58歳の民宿のご主人とも話しが弾み居心地のよい場所になった。今日は26歳の若いスタッフが周辺を案内してくれることになった。
福島原子力発電所へギリギリ接近14㎞地点の牧場を訪問,黒い牛が約300頭が放牧されていた。遠く広い草原に緑と黒のどかな牧場風景だ。しかし私の携帯の放射線線量計が悲鳴を上げるように音を立てている高レベルの線量を表示している。牧場主の吉沢さんにお会いしお話しを聞くと戦慄を覚えた。
吉沢さんは,「私はこの放射線まみれになり『うごく瓦礫』といわれ殺処分を迫られているこいつらの生を見届けるんだ。」とつぶやいていた。多くの人達の苦しみが続いている。 
アルバム2014.04.2426歳佐藤さんと一緒
      ・福島被災地の今  
4月25(金) 今日もおだやかな素晴らしい日より。農家民宿「一番星」の玄関が好きだ。
玄関を出ると大きな置き石の岩と可愛い花が迎えてくれる。昨日まで主に車で移動して民宿周辺の大まかな地理的情報を得ることができた。さぁ,ここからが本番だ。ランナーだからできる見聞をすることにした。結果として33㎞の走行になった。しかし時々立ち止まり「これはひどい!」とつぶやきながら,国道6号線を東京に向かう方向に走り続けた。初めてランニングしながらまわりの状況,自分の感じたこと等ICレコーダーに語りかけた。文字では表せないことがよりリアルに伝わるのではという試みだ。
アルバム・2014.04.25津波浸水区域33㎞
・ランニング実況レポート  
4月26日(土)・ウグイスの鳴き声,聞いたこともないきれいな小鳥たちの歌っているような鳴き声で目を覚ました。一瞬夢を見ているようだった。今日も気持ちよい天気だ。「菊池さん,ご飯ですよ。「はーい。」お客さんは私だけ。民宿のご主人奥さん,お手伝いのスタッフとも気軽にお話しができるようになった。私が33㎞走ったことをしきりに感心してくれた。
ご主人から「菊池さん車で一緒に行ってくれないか。」と頼まれた。本日土曜日,団体さんでいっぱいになるという。そのお客さんを迎える20人乗りのマイクロバスを借りに行くという。途中いろいろお話ししてくれた。「あの国道まで大きな漁船が流されてきたんだ。」少し山の方に入っていった。そこには宿泊できる施設があった。山羊が2匹,にわとりもいて思わず「気持ちいいですね。」というと。「ここは線量が高くて最初に除線してもらった。」といってそこに取り付けられている大きな線量計を教えてくれた。
 途中でご主人とお別れして来た道とは違う飯舘村に抜けることができる山道を行くことにした。線量計のスイッチをオンにしたままどんどん進む。ある地点から線量計のカチカチ音が激しくなってきた。こんな山奥も放射能で汚染されているのか!

アルバム2014.04.26南相馬から自宅へ  
 
【旅を終えて】
 無事自宅に着いた。福島原子力発電所から6号線で約218㎞車で3時間以内のところだしかし6号線が福島富岡町,双葉町区間で分断されている。そしてそのエリアは人も立ち入れない放射能で汚染されていた。南相馬にある民宿へは約120㎞迂回しなければならなかった。いったん東北道に入り南相馬へのコースも考えたが敢えて120㎞コースを行くことにした。途中未だに居住制限区域である飯舘村があった。
・ギターを持って行ったけれど:民宿で音を出す気にもならなかった。せっかく持ってきたから1回だけコードを押える練習をした。帰り際民宿の奥さんが荷物を運びを手伝ってくれた。ギターも運んでくれた。ご主人が「ギター持ってきていたの,仮設の人が喜ぶなぁ。」と言ってくれた。「おれも5㎞マラソンやってみるか。」言葉少ないが3.11後退職しこの民宿を始めたという。きっと大変な経験をしているのだろう。交流を続けようと思った。
・線量計は敏感に反応していた,しかし私はそれによって痛みを感じなかった。このことが怖いと思った。人の体は場合によっては痛みによって自分の身を守ることができる。放射能の怖いところは,見えない感じないしかし長期にわたって確実に身体に深刻なダメージを与え続ける。だからその情報を知らないと,とんでもないことになるのだ。
・福島も広い
・もっと勉強をしなければと思った。このページを勉強の場とし,みんなに知らせよう。「原発は滅び行く恐竜である」水戸巌著,原子核物理学者の本を読み始めた。
・東海原子力発電所は自宅から98㎞。
・私にできること:東日本大震災この出来事を私は忘れることがないだろう。その日から3ヶ月後の6月に私の妻が亡くなった。しかし今回の福島被災地訪問でその事実だけでなく,今も東日本大震災によって破壊された福島原子力発電の事故が終わっていない!ことを忘れない。浪江町・双葉町・大熊町の帰宅困難地域の人達と今なお線量が高く戻りたくても戻れない状態であることを忘れない。まだ放射線を出し続けている状態が続いている限り私達の生活空間も安心できないことを忘れない。それを私のまわりの人に知らせていく。