「FACES OF JAPAN」物語

シナリオ  英語版  日本語版

1987年(昭和62年)11月4日の朝日新聞
 「昨年秋から米国の200余局で流されているテレビ・ドキュメンタリー番組「日本人の素顔」(FACES OF JAPAN) 第二シリーズ13本の撮影が,日本各地で進んでいる。日本の企業が金を出し,制作は完全に米国にまかせる新しい試み。 どんな「素顔」が伝えられているのか,来日中の米国勢にきいてみた。 」 と言った前書きで始まる長文の紹介記事を出しています。 この13シリーズの中の11番目のシリーズに 「中学教師と生徒たち」 があります。 そのほかに週刊誌フォーカスも来日したスタッフの活動ぶりを掲載していました。 制作費6億円の13シリーズの中の11番目のシリーズに 
「中学教師と生徒たち」 があります。

本当に信じられないような話がある日突然,私の所に舞い込んだのです。

 ●1988年3月私は,アメリカ カリフォルニアの北
 車で1時間の街 ペタルマという街を訪問した。そのとき私の訪問が当地の新聞の記事となった。

これもFACES OF JAPAN と関係があった。
 

 1986年(昭和61年)8月9日 自宅に電話があった。「PBSの仲曽根です。」私は「TBS」と聞こえて聞き返した。「アメリカのテレビ局PBSで日本のNHKに当たる」ということだった。柏でディレクター仲曽根氏と会う。FACEC OF JAPANの企画を話され是非私を取材させてほしいという。沖縄出身で精悍な顔をして真摯な態度が印象深かった。「私より適任の方がおりますよ。」と断った。

 そしてしばらく立って,「やはり 先生にお願いしたい。」と再度の依頼があった。しかしお断りした。私も仲曽根氏と別れて考えてみた。まだわからないことは多いけれども,もし取材を受けるとしたらどんなことになるのだろう。私個人だけが了解してもこれはできないことだ。私の日本の教師としての1日の動きをとらえるとしたら,学校にカメラと取材陣が入らなければならない。私は現在3年の担任で一番神経を使う時期だ。進路決定の重要な時期でもある。カメラを向けられた生徒がどのように反応するのか。そして大規模校の奥戸中学校の先生方にも迷惑がかかる。これは実現するには困難があるなぁ。
断っておいて良かった。

仲曽根氏の誠意に断りきれなくなった。いやそれよりこの人すごくおもしろい人だ。 今はイタリア人の奥さんとイタリアに住んでいるが,この仕事で,アメリカのニューヨークにきている。もともと作家だがフリーの仕事としてプロデューサーをやっている。英語に堪能でスタッフのアメリカ人カメラマンジェフリー・オコーナーに次々と指示を出している。
格好いいなぁ。

この国際的な人達と生徒が接する場面を作ってやれればむしろ生徒達にプラスにできるのでは そして先生達との交流も考えればきっと喜んでくれる。このように考えると何かおもしろいことが起こりそうな気がした。
よしやるか
当時の淵脇校長先生 松田教頭先生 そして松本先生(学年主任) 職員会議で受け入れが認められた。


ただ取材の約束をきちんとした。三年生の教室の同じフロアーにスタッフの控え室を用意した。朝の登校時から仲曽根氏 カメラマン他4人が常駐して取材が開始された。

あくまで教育現場での取材なのだからそれを妨害するような動きは止めてほしい事。取材中もこちらが場をはずしてほしいと言ったらそれに従うこと。

スタッフは誠実だった。お金と時間をかけて良いものを作りたいという熱意が伝わってきた。ドキュメントというのはただ記録するのではない。
仲曽根氏はポリシーを持っていた。
日本のテレビ番組の作り方に批判的だった

 私が中学生の頃英語の勉強を結構一生懸命やった。NHKのラジオ講座を聴いたり英語に親しもうと努力した。いわゆる受験英語では得意のほうだった。しかし今の中学生のように外国人講師が直接目の前で発音してくれるような授業はなかった。時間をかけているのに英語が聴き取れない 話せない。 英語を充分聴き取れない 話せない私が経験した珍しいお話です。もし英語を自由に使えたらもっとおもしろい展開になったでしょう。
語学の勉強をしょう。地球に住む多くの人達と交流したい。