死について

2023年(令和5年)12月02日(土)
もう12月に入ってしまった。この頃憂鬱なのはニュースを見ること。毎日のように戦場での生々しい映像、なんの罪のない子ども達が傷つき命をお失っている。大人の悲痛な叫びと涙そしてこれを止めることができない国連。腹が立つ日本政府の動き。
 平和だからベットで死ぬことができる。病院で治療を受け死ぬことができる。
こんな中「骨が語る人の生と死日本列島1万年の記録より」(東京大学総合研究博物館) という展示を見てきた。3万年前の航海プロジェクトのリーダーだった海部陽介先生監修。
展示の標題を見るだけでも興味深い
第一部:骨が語る「生」 日本史上最高のマッチョマン / 筋骨たくましい縄文人の中でもとりわけ頑丈な集団がいた / 骨があらわす縄文の生活 / 大けがを負って / 彫りの深い顔立ちの縄文人は歯並びが整っていた / 奇抜なデザイナーたちには不思議な習慣があった / 戦争の証拠がなく平和にみえる縄文時代に暴力行為はどれほどあったのだろうか? / 激動する社会のはざまで@渡来系集団の到来 (弥生時代) / 激動する社会のはざまでA変わる顔つき (古墳・飛鳥・奈良時代) / 長頭で反っ歯だが歯並びの乱れは少ない鎌倉時代人 / 豊かさに伴った長寿化と小顔化と歯並びの悪化と低身長(江戸時代) 
第二部: 骨が語る 「死」 盤状集骨葬 (縄文時代) /廃屋墓 (縄文時代)/ 多人数集骨葬 犬の埋葬 (縄文時代)/横穴墓(古墳・飛鳥・奈良時代)/ なぜ人骨がないのか (奈良・平安時代)/共同墓地の出現と合戦の犠牲者 (鎌倉時代) / 誰もが墓地に葬られる時代の到来 (江戸時代)
第三部:がん/結核/梅毒

死の展示物に何もない展示があった。なんと奈良・平安時代は人骨の出土例が極めてまれだというのだ。
その考察として
それは上流階級の間で薄葬思想 (儒教の影響) や火葬 (仏教の影響) が広まっただけでなく、庶民は遺体を山野などに放置することが多かったからで、 つまり墓が重要視されない時代風潮があった。
という。
個人がお墓に葬られるというのも当たり前ではない時代を経て現在がある。
果たした1万年後の人類学者はどのような研究をするのだろう。現在の人骨も火葬され全体を保存することはできないはずだが。
2023年(令和5年)8月24日(木)
 とりわけ命の尊さを心に刻む日本の夏。多くの命を一瞬にして奪った兵器を脅しに使っている国、それと対抗するためにさらに兵器を準備するため膨大なお金が使われる。この愚かなサイクルを断ち切って欲しい!兵器をつくり売る企業が栄えそして命が失われていく。戦争が起きても安全な場所から号令をかけるごく一部の人たちの人生を豊かにする。すべての人が自分の死と向き合い一度だけの人生を楽しみ生きている喜びを満喫して死を迎えたい。 
2023年(令和5年)2月26日(日)
ロシアがウクライナ侵略して1年が経つ。毎日毎日戦争で死んでいる。今目の前で起きている戦争を止められない。なにかの弾みに第3次世界大戦が勃発するのではという恐怖を感じる。必ず100%死ぬんだからと戦争で死んでいくことを肯定する支配者の論理。 人の命が数としてしか扱われない。一人一人に名前があり家族があり楽しい事をたくさんできる時間があるはずだ。

 "死体が教えてくれたこと (14歳の世渡り術)"(上野正彦 著)
「私は、この仕事に誇りを持っている。 人の生死にかかわりながら、90歳になろうとしているとき、10代の皆さんに向けて本を書くことになった。そのため自分のたどった人生をふりかえることができた。実にいろいろなことがあったが、ついこの間のように思える。 25歳で医師になり、法医学を専攻したので、生きている人には縁がなくなってしまった。亡くなった人を検死したり、解剖したりする東京都の監察医"を昭和の時代30年間やってきた。その間2万体もの変死者を警察官と一緒に検死や解剖をし、処理してき
た。」
あとがきでこんなことを記している。14歳の若者に死の話しをする。それはまさにこれから生きていくわかものへの何よりの珠玉の言葉のように思える。70歳を過ぎて感銘する内容だ。

■反芻したい言葉を認めることにする
「死を身近に感じたとき、初めて人は生きるということを実感する。」
2023年(令和5年)1月12日(木)
1月8日新春早々、葬儀に参列した。高校同期のメーリングリストにも訃報の数が増えてきた。生きるための交流の場が死の告知板のような役割になってきた。寂しいけれどしょうがないことだ。葬儀でくり広がれるおこないを今までと違って自分の場合はどうするかという目で見ている自分がいた。今時なのか最後の別れのとき喪主が参列者にスマホでの死に顔の撮影を促した。皆さんが棺に近づき顔の写真を撮ろうと一斉に近づいた。私はもちろんその場を動かなかった。最後のお別れの瞬間の心が乱されたような気になった。もう一度死に顔に会いたいと思うのだろうか。生きていたイキイキした顔のままで記憶してあげたい。
 私の葬儀はどうしようか?これが普通になるなら私のときは撮影禁止としたいが死んだ者の意思より生きている人のための葬式だから仕方ないか!それなら葬式をやらない方法も考えなければ。今までにない葬式で考えさせられたことだ。あーあ。
2022年(令和4年)7月26日(火)
 どんなに悪い行いをした人でもその死に接するとご冥福を祈ることは自然だろうが、その人から散々痛めつけられた人は弔意を素直に表せないだろう。身近にいる周りの弔意を示したい人が葬儀を執り行いすべてが終わる。遠く離れた存在の有名人が亡くなるとその人の過去の所業などが紹介されそれを知ってから改めて遠くから弔意を表すために手を合わせることもあった。
 安倍晋三という人がこの日本で手製の銃で銃撃され死んだ(2022年7月8日)。多くの人がこの日本でこんな事件が公衆面前で起きたことに衝撃を受けた。 早速献花台がもうけられ多くの人が弔問に訪れていることが繰り返し報道された。
私は一人の人間が自分の意に反し命を絶たれた痛ましい事件を憎んだが弔意の気持ちは全く起きなかった。逆にわざわざ花を手向けに行った人になぜこの人に弔意を表したいのですかと聞きたいくらいだ。マイクを向けられた人のこたえも同じ、長く政権を担当してくれたとか政府が発表する中身を繰り返しているだけだ。安部は内閣総理大臣に再就任した2012年(平成24年)12月26日から辞任する2020年(令和2年)9月16日までの期間2799日約7年半この間庶民の暮らしがよくなった、将来も安心だ と思ったことは一度もなかった。それよりどんどん不安になっていく。難しいことは抜きにして上に立つ政治家の行いに不愉快を感じてきた。その頂点にいたのが安部だ。

こともあろうにこの犯人が安部を銃撃した動機が凄まじいモノだった。統一教会信者の2世というのだ。そこから安倍晋三という人の所業が次々と明るみに出てきた。今まで手を合わせた人までとんでもない人だったのだと知ったのだ。
亡くなって私達が知らないところで素晴らしい活動が紹介され自然と手を合わせたくなる有名人。
亡くなってからよりとんでもない人とわかる有名人。

 明日はこの人を国の税金を使って葬式 国葬をやるという。 どうせ国民はテレビの葬儀の中継を見れば
国葬をやってよかったと行ってくれるだろうという魂胆だろう。

コロナ感染がピークを迎え多くの国民がオリンピック中止を願ったが、それを無視して強行した。多くの人は当然テレビを見て必死に頑張る選手を応援していつの間にかオリンピックに夢中になる人も多くなった。

何故多くの反対を押し切ってでもオリンピックを強行したのか。今その理由がわかってきた。オリンピックに群がり一儲けしようとした人たちの悪行が暴かれ始めている。

       明日は国葬反対の意思、安部の一言で死に追いやられた真面目な公務員赤木さんを偲ぶため
                           東京に行く、


2022年(令和4年)7月20日(水)
長く生きるということは自分より早く亡くなった方を見おくらなければならないつらいときを過ごす機会が多くなるということだ。
最近友人が亡くなった。家族葬を終えて知らされた。人それぞれのお付き合いの程度でその弔意をあらわすことになる。どうしてもお会いしてお別れをしたかった。最後まで自宅で頑張りどうしようもなくなって入院されたという。入院したらもう戻れないそんな気持ちがあったのだろう。妻が病室を個室に移すことを嫌がった。死に近づくのを拒む最後の意思表示だったように思う。ほんとにつらい。
 2021年(令和3年)7月に亡くなられたご住職の本葬儀が7月19日にお寺で執り行われた。父、母、妻、妻の父、母を送ってくれた。それぞれの葬儀の最後に故人についてご住職がお話ししてくれた内容が印象深かった。迷うことなく葬儀に参列した。享年100歳で私のような一般人以外に各地から僧侶が駆けつけちょっと違った雰囲気だった。蒸し暑く、コロナ防止のマスク着用での1時間はきつかった。教職に32年就いていたことなどが紹介された。(合掌)

2022年(令和4年)5月8日(水) 
健康寿命について考えた.。現役の時はなかなかこんなことを考えるゆとり時間がなかった。
しかしどんどん時間が流れ死が近づいていることを実感できる年齢に達し、そして確かに今までと違った体の変化を自覚した今の自分にとって非常に興味深い内容だ。私達の究極の願いは人生終わる寸前まで普通の生活をしたい!だ。元気なときはこの元気がいつまでも続いて行くように思えた。
こんな記事を見つけた。
2022年5月1日 16時15分 NEWSポストセブン
精神科医・和田秀樹氏(写真/共同通信社)
 長い人生を光り輝かせるための必須条件が「健康」だろう。「80歳」以降は意識を変えることが重要だと説くのは、ベストセラー『80歳の壁』(幻冬舎新書)の著者・和田秀樹氏である。
片手には杖、街を歩く男性・女性。和田氏は「自分の足で歩けることを喜ぶことも大切」という
 * * *
 高齢者専門の精神科医として35年間、臨床の現場で過ごし、診療した患者は6000人を超える。介護の現場や講演会などで出会った方を含めると、1万人以上の高齢患者と接してきた。
 そうしたなかで感じるのが「80歳の壁」だ。
 80歳からの人生は70代までとはまるで違う。昨日までできたことが急にできなくなる。そんな現象が当たり前になる。
 実際、日常生活を制限されることなく健康に過ごせる「健康寿命」は男性で72.68歳、女性は75.38歳だ。80歳を超えると心身が急激に衰えて、がん、脳梗塞、心筋梗塞など、命に関わる病気も発症しやすくなる。
 認知症を患う人は60代だと1〜2%だが、70代前半で3〜4%になり、80代前半では一気に20%に増加。80代の後半では40%の人が認知症を患う。

 こうした現実を踏まえ、80歳を過ぎても健やかに生活できる人を私は「幸齢者」と呼びたい。

 幸齢者になるには、いくつかの条件があると思う。ベースとなる考え方は「老いを受け入れる」こと、そして「できることを楽しむ」ことだ。
 歳をとればその分、心身の機能が衰える。筋力は低下し、関節は痛む。できないことが増えるのは当たり前だ。それを嘆くのではなく、残っている機能を楽しみながら伸ばす生活を心がけたい。歩けるのなら、毎日の散歩を楽しむ。私も糖尿病を持っているが、インスリンは使わず、歩くことで血糖値を下げている。

 また、歳だからと真っ先に免許返納を考えるより、更新時の検査をパスできるのであれば続けることを考えていい。運転を止め、行動範囲を自ら狭めることは、認知症への入り口を広げかねない。
 セクハラなどは言語道断だが、性的な関心が残っているならそれを否定する必要はない。そうした分野のDVDなどを楽しむのもいい。男性ホルモンの分泌を促し、若さを保つことにもつながる。
 老いを嘆くのではなく楽しむ。つまり「我慢しない生活」が大切になる。

 生活習慣病予防のための食事制限など、60代頃までは効果があるだろう。しかし、80歳を超えたら逆効果になりかねない。下手に制限をして低栄養状態になれば命に関わる。

 食べたいもの、それは体が必要としているものにほかならない。我慢せず、好きなだけ食べるのが幸齢者への道だと思う。体型が少しふっくらしているほうが若くも見える。

 80代になると血糖値や血圧、コレステロール値などは若い頃より高くなりがちだ。しかし薬に頼り過ぎるのはよくない。医師との相談は必須だが、数値を下げるために複数の薬を飲み続ける生活は見直したほうがいい。それには信頼できる医師探しも必須となるだろう。

 幸齢者にとって頼りになる医師は、数値だけを見るのではなく患者の言葉に耳を傾け、体の調子をトータルで見られる医師だ。診察時に薬の質問してみるといい。

「体調と相談しながら減らしていきましょう」といった反応なら信頼できる医師だと思う。
 人生120年。楽しんでこそ幸齢者としての道が開ける。

※週刊ポスト2022年5月6・13日号
NEWSポストセブン

外部サイト
和田秀樹医師が語る、老化を防ぐ生き方 肉食は控えるのではなく積極的に
生涯現役を目指す、鎌田實式「がんばらない筋トレ」のやり方
和田秀樹医師が語る老化の分かれ道「現役の意識を持ち続けることが大事
 今より若いときはない(ある人がつぶやいた、なかなかいい言葉だ)
 2022年(令和4年)1月27日(金)
 今年も死について勉強して深めていこう。70歳を過ぎてから一気に死のゴールが近づいてきたように感じる。人生一度しかない!まだやりたいことがたくさん。こちらから待っていては貴重な時間を無為に過ごしてしまう。こちらから生きる楽しみをつくっていこう。そんな意気込みで新しい年をスタートさせた。「70歳が老化の分かれ道」和田秀樹著を引き続き読んでいるが自分の考えと全く違ったことが書かれているところに注目し即実行することにした。「日本の高齢者の食生活を見ていると、自ら進んで『しょぼくれて老人』になろうとしているように、私には思えてしまいます。」とある。どういうこと?まさに私が心がけている食生活に異を唱えられているように受け止めた。多くの知見をもった専門家のはなしに反論することはできない。良さそうだから実行してみよう。肉を食べようということだ!この1年で人生が終わらないことを願って死のゴールへ向かってエネルギー全開でいこう!勇ましすぎるかな!
2021年(令和3年)12月25日(金) 
「70歳が老化の分かれ道」和田秀樹著 30年以上に渡って高齢者専門の精神科医が書かれたものだ。70歳になったかと思ったらもうすぐ2年が経過してしまったが、興味深く読み進めている。まだ全体の18%しか読んでいないが、「なるほど」と頷く箇所に立ち止まっている。脳のはたらきを説明したあと「こうした『意欲の低下』が顕著となってくるのが、まさに70代と言えます。」とある。
この後を寝る前に少しずつ読んでいる。やはり死に近づいていることを意識するとその直前に自分がどういう状態でありたいかに興味ありだ。直前まで意欲的に人生を楽しむにはどうすればいいのだろう。
2021年(令和3年)10月25日(月
「老いる意味 うつ、勇気、夢 森村誠一
森村誠一といえば「悪魔の飽食」。と私の記憶にある。戦争中に日本軍が行った残虐を書に著した。ホテルを舞台にした推理小説も夢中に読んだことがある。作家という仕事のすごさを感じたものでした。その森村誠一現在88歳だ。
五木寛之さんが89歳だから同じ世代ということになる。うつ、勇気、夢を語る大先輩の森村誠一の語りも胸に響く言葉の連続だ。
ここに記しながら熟読しよう。
2021年(令和3年)9月30日(木)
久しぶりに一気に一冊の本を読み終えた。
「死の教科書」心が晴れる48のヒント 五木寛之著

「死を遠ざけることで人は元気になるのではない。
死を常に感じていることが、生きていく力になる。
私が、死について語り続ける理由の一端もそこにあるのです。」

と最後に結んでいる。五木寛之さんと同じ認識に立っていることが我が意を得たりと励まされる。
この48のヒントは具体的に読者の質問に答えながらのお話しで食い入るように読み終えた。

 私より年上その歩んできた経歴を拝見すると私たちが体験しなかった事を体験されしっかりと頭脳に蓄積されている。
12歳で敗戦を迎えた筆者の言葉ズーンと心に響く。

「いまの時代、病気で苦しんだりすることはあったとしても、それでもたいてい
の人は病院で治療や看護を受けることができるし、死んだ後も葬儀などを行って
弔ってもらえます。しかし、そうした死はいつの時代も当たり前にあったわけで
はなく、あくまでもいまの日本が平和だからこそかたちにできている、言うなれ
ば「平和な死」なのです。
戦争中や敗戦後のような非常時においては、当然そのような「平和な死」はあ
り得ません。そこにあるのは「非常時の死」です。兵士たちは、国家の命令で戦
地へ趣き、戦いのなかで死んでいきました。空襲の爆撃や火災によって、命を
落とした人も大勢います。他国の兵士から暴行を受けて亡くなった人、収容所で
飢えと過酷な労働に耐えられずに死んだ人たちもいる。生きることに絶望して自
決した人もいました。外部の大きな力による強制された死、理不尽な死、無意味
な死が、世のなかにあふれていたのです。
私は12歳のときに敗戦を迎えて、そうした「非常時の死」を嫌というほど目に
してきました。いまの私が、死に対してドライというか、人の死に接してもほと
んど悲しんだり、泣いたりしないのは、敗戦後の記憶が自分のなかでいまだに尾
を引き、「平和な死」を贅沢なものだと感じてしまっているからでしょう。
いまの世のなかを見まわして、死ということに関していちばんの問題点だと思
うのが、ほとんどの人が死に対する実感をもてていないことだと思います。」
 
2021年(令和3年)8月17日(火)
 オリンピック開催を契機にコロナ感染が急拡大している。連日のように死者数が報じられている。
それが日常的になりつつある。毎日毎日多くの人の死が見えないところで起きているのだろう。
それはどうしようもない事情で死を迎えている事が多い。殺人とか交通事故とかのしの悲劇により失われる命。
しかし明らかに救える命がある。コロナによる死はそれだ。救えないのはなぜなのかを,人災と言われるのはなぜなのか考えなければならない。死者の数をしっかり見て今進行していることが大変な事なのだと認識したい。
●新型コロナウィルス (COVID-19) 統計情報   データ出典元: CDC ・ WHO ・ ECDC ・ ウィキペディア
・茨城県の事例(私の住む県)
更新日時: 8月17日 1:20 (UTC)
感染者数4,755 死亡者数62 回復者数3,930
・日本の事例
更新日時: 8月17日 1:20 (UTC)
感染者数1,144,546+16,164 死亡者数15,408+8 回復者数968,380+13,129

・世界全体の事例
更新日時: 8月17日 1:20 (UTC)
感染者数207,604,434+480,623 死亡者数4,367,603+6,549回復者数
●第2次世界対戦の犠牲者(ウイキペディア)
日本 人口71,380,000 軍人2,120,000[11][12] 民間人500,000? 1,000,000 合計2,620,000 ? 3,120,000
人口(1939年1月)における犠牲者数の割合(3.67 ? 4.37) 
2021年(令和3年)6月19日(土)
明日妻が亡くなって10年になる。非常に速く流れる川のような時の流れを感じる。あと10年を考えるとこの間に人生のゴールを迎えることができるかもしれない。
あした死ぬかもよ?を読み終え他の読書に入っているがこの本は反芻して自分なりの考えと併せて血肉にしたいと思う。
しつもん10 自分のお墓に言葉を刻むとしたら,なんて入れる? 
この記述の中にスティーブ・ジョブズの文字があった。スティーブ・ジョブズは妻と同じ年の10月56歳で亡くなっている。彼が亡くなる直前に学生に向けてスピーチしている動画も見たので印象深く心に残っている。
オーストラリアを旅行したときを思い出す。気ままに知らない道をどんどん進んで行ったら広ーく開けた場所に出てきた。墓地だった。全体に日本式の敬礼をして一つ一つのお墓を見て歩いた。墓碑が興味深かった。異国の全く知らない人でもその人の人生を垣間見るようだった。素敵なお墓だなぁと思った。生きている人に語りかけているようだ。
あした死ぬかもよ?に「自分より優れた人々を集めるすべを知っていた男ここに眠る (これは鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの墓碑銘です)」 とあった。これも生きる人のための貴重な言葉だ。さぁ自分はどんな墓碑を刻むか。いや今の純日本式お寺のお墓でそんなことしていいのかな。これは生きているうちから準備しなければならないかな。おもしろい!楽しみになる!
2021年(令和3年)5月26日(水)
あした死ぬかもよ?の読書が続いている。毎日楽しみに少しずつ読んでいる。電子書籍だから気に入った場所に色づけすることができる。自分が常々まわりの人に話してきたことと通じる内容もあり共感しながら読んでいる!
しつもん17 おじいちゃん,おばあちゃんの名前をちゃんといえますか? そこで紹介されている一人の命のためにどれだけ多くの生と死があるか。この内容を私は子供たちに伝えたい。こどもにとって顔のまだ見えるおじいちゃん,おばあちゃん。その二人を産み育てたjおとうさんとおかあさんがいる。そのようにずーっと遡るとどうだろうか。「あなたの命が大切だ!」と言葉で言うよりも次の簡単な計算を子供にさせたい,あなたの命を生んでくれた(お父さんお母さん2)+(お父さんお母さんを産んでくれた人4)+8+16+32+64+128+256+512+1014と両親の世代を一とすると十世代で2036人の人の命があって今の自分の命があるのだ。これを続けていけば顔の見えない何兆にも及ぶご先祖様の生と死があって自分がいることを知ることができる。自分にもそして友達の一人一人かけがえのないご先祖様がいるのだ。そんなことを子供に教えたい。一人一人の命の大切さが実感できる数学(算数)の計算だ。
連綿とつながる命のバトン,授かった貴重な命を精一杯生きて死を迎えたい。
2021年(令和3年)4月29日24日(水) 
 あした死ぬかもよ?ー人生最後の日に笑って死ねる27の質問ー ひすいこたろう
おもしろい本に出会えた!あした死ぬかもと言い聞かせて寝床に入る自分にとって興味あり。
序文からしておもしろい!「あなたが生まれたとき,あなたは泣いていた周りの人たちは笑っていたでしょう。だからいつかあなたが死ぬとき,あなたが笑っていて周りの人たちが泣いている。そんな人生を送りなさい。ーネイティブアメリカンの言葉ー

さらに調べてみた ネイティブ・アメリカンとは、アメリカ先住民族の総称
 When you were born, you cried and the world rejoiced.
Live your life so that when you die, the world cries and you rejoice.
あなたが生まれたとき、あなたは泣き、人々は喜んでいただろう。
あなたが死ぬときには、人々が泣き、あなたは笑っていられるような生き方をしなさい。(チェロキー族)
(世界に通用する国際人へ。グローバルメディアサイト BASE81.comより引用)

「僕らが死に至る可能性は100%です。「オギャー」とうぶ声をあげた瞬間から1秒1秒,今この瞬間も死に近づいています。」
  まだ読み始めたばかり。しばらくはこの本の内容を理解し心に留めるために,このページを使おう。
2021年3月24日(水)
 「1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級金メダリストで、24日にがんのため53歳の若さで死去した古賀稔彦さんの通夜が28日、川崎市内の寺院で営まれた。小雨も降る中、ともに同五輪を制覇した吉田秀彦さんら約3千人が「平成の三四郎」と称された柔道家との早過ぎる別れを惜しんだ。」

柔道の世界とは全く無縁だけれど,古賀さんの顔がなぜか脳裏に刻まれていた。いい顔だ!その無念さを思うとつらい気持ちになる。
2021年(令和3年)02月22日(金)
 「死について考えない」日本人を待つ壮絶な最期 ・過剰な医療が患者の穏やかな死を阻んでいる
こんな表題の文章に目がとまった。
『終末期、緩和ケア、尊厳のある死に方……「死」をどう迎えるかをテーマに、メディアやニュースで語られるのを耳にする機会は増えた。新型コロナウイルス感染拡大はとまらず、自らがどんな最期を迎えるのか、想像してしまうという人も多いかもしれない。死をどう捉えるかは人それぞれだが、おそらく誰でも死を前にした苦痛を思えば恐ろしくなるだろう。
兵庫県尼崎市で、30年以上にわたり在宅医療に関わってきた長尾和宏氏が、2016年に刊行した『痛くない死に方』が、高橋伴明監督・柄本佑主演で2021年2月、実写映画として公開される。映画に描かれているように、いざ「その時」がきたとき、私たちははたして「痛くない死に方」を選択することができるのだろうか。原作者の長尾氏に話を聞いた。
興味ある内容だ。もう上映されている。これは早速みよう。
2021年(令和3年)01月22日(金)
 1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。
戦後初の大都市直下型地震は、関連死を含め6434人の命を奪い、住まいや仕事など暮らしの土台を崩壊させました。
あの日から 2021年1月22日 で 9503 日がたちました。
2020年(令和2年)10月20日(火)
 コロナ禍が続いている。毎日のように感染の状況そして亡くなられた人の数が報じられている。その中で 直接コロナ感染で亡くなったのでなく芸能人の自殺が相次いでいる。芸能人が亡くなると,ハゲタカのように一部メデイアは毎日毎日死を悼むと言いながら個人のプライバシーをこれでもかこれでもかと暴きそれを「商品」にして売っている。そっとしておいてやればよいのに,腹が立つ。
いつから始まったのか,芸能人の死をテレビで扱いだしたのは。葬式まで中継でやったり,弔問客にマイクを向けたり,本当に人の死を静かに悼む雰囲気をぶち壊しそして社会全体におかしな雰囲気を作り出す。

こんな記事に注目した。丁寧に分析している。一部を掲載する。太線は筆者。


芸能人に「自殺連鎖」か?日本社会を覆う堪えられない閉塞感の実態
渋井哲也:ジャーナリスト・作家


「竹内結子さんまで……
なぜ著名人の自殺が相次ぐのか  
 芸能界で自殺が相次いでいる。5月23日に、恋愛リアリティショー番組『テラスハウス』(フジテレビ系)に出演していた、プロレスラーの木村花さん(享年22)が自殺した。新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、非常事態宣言が出されていた時期であり、国民が外出自粛を求められていたタイミングでもあった。コロナ禍での孤立感により、SNSに時間を費やし、誹謗中傷を気にしてしまう雰囲気もあった。木村さんの自殺を機に、ネット上における名誉毀損が、社会的な課題として国会でも議論された。

 この時期は、朝や昼のワイドショーから夕方や夜のニュースまで、毎日のように、新型コロナウイルス関連の報道がなされていた。「感染者が何人いるのか」「どの県で感染者が出たのか」「クラスターがどこで発生したのか」というニュースばかりが流された印象だ。
学校は大学を含めて休校やオンライン授業となり、特に新入生は同級生の友達ができない状況が続いた。この頃、筆者が別件の取材で話を聞いた女性の子どもが小学1年生で、「担任は○○先生なんだ。でも、どんな人かわからないし、友達もまだいない」などと話していた。この子どもの言葉は、当時の若者の孤立状況の1つを示していた。

 続いて、鷹野日南さん(享年20)7月10日に、三浦春馬さん(享年30)が7月18日に、芦名星さん(享年36)が9月14日に、藤木孝さん(享年80)が9月20日に自殺した。中でも世間に衝撃を与えたのが、国民的女優の1人であった竹内結子さん(享年40)までもが、9月27日に自殺したことだ。三浦さんと芦名さん、藤木さんは、ドラマ『ブラッディ・マンデイ シーズン2』(TBS系)で、三浦と竹内は映画『コンフィデンスマンJP』シリーズで共演していた。】

2020年(令和2年)08月23日(日) 
 死について書いてきたけれど、人が死についてフト考えるときは身近な人そして有名な人が亡くなったときかと思う。自分は妻の死以来毎日のように意識している。ここでも紹介した解剖学者として死に向き合ってきた養老孟司博士,の話に

Newton――先生ご自身は,自分が死ぬことを考えたときにこわくなりませんか。
「養老―まったくこわくありません。よく考えてみてください。死とは「自分を観察できなくなること」だとすれば,毎晩私たちは睡眠という死を経験しています。ほとんどの人は睡眠をおそれていないし、睡眠について深く考えません。同じことが、自分の死,つまり一人称の死にもあてはまります。


この話を聞いて以来、ベッドに入るとき明るく「さぁ棺桶に入りますかぁ」とつぶやいている。きっとこんな話を人前ですると嫌がられる、気味が悪いと変人扱いされるだろう。しかし結構おもしろい。永遠の睡眠(死)の「ベッド」棺桶に入るには人の手を借りることになる。それも1回だけだ。
 2020年(令和2年)05月02日(土)
 依然としてCOVID19の感染騒ぎが終わっていない。緊急事態宣言5月6日で解除の予定がさらに延長された。自由な時間が制約されるということは,とんでもない事態であるが,落ち着いて読書など,今までできなかったことができていることはありがたい。
 「老いてこそ生き甲斐」石原 慎太郎作という本を読んだ。「死」という最後の未来と向き合いたどり着いた新たな境地。『「死」という最後の未来』とはなかなかいい表現だ。あの石原裕次郎のお兄さん,「太陽の季節」で芥川賞,東京都知事,などなど日の当たる人生街道を歩いてきた人が一介の人として死を目前にしての考察は大変おもしろい。「つい最近私は87歳の誕生日を迎えましたが,この年になると老いなるものの神髄が身にしみて分かります。それには訳があって今から7年前,私は思いがけぬ病に襲われ,何とか死線を越えることができました。」と最初に打ち明けたところから始まる。いつも自信たっぷり,時には傲慢な態度が印象深い人としてのイメージが強かったので,ある意味で年をとると言うことはこういうことなのだと少し寂しさを感じた。「それにしても弟の死に様は無残なものでした。」と52歳で弟の石原裕次郎の死を兄貴として見てきたはなしは,身につまされる。54歳で人生を終えた妻の闘病を間近に見てきたのでその兄貴としての辛さは共感できる。
そして最後に次のような言葉で締めくくる。
「若死には気の毒な天命というよりないが,同じ世に生まれてきて老いるまで長い人生を歩んできた老いたる者達こそ,後からこの世にやってくる者達のためにも常に新しい生き甲斐を見い出し,人生を見事に全うしなくてはなりません。それは老いたる者のこの世に対する責任でもあります。」その通りだ。
 2020年(令和2年)04月19日(月)
 「死について話をしておいて」 新型コロナウイルスで英医師たち
と題してBBCニュースの内容がネットで公開されていた。

「もし自分が新型コロナウイルスで重篤になったらどうしたいか……。新型ウイルスのパンデミック(世界的大流行)が続くなか、万が一の場合に自分はどうしたいのか、大切な人たちと話し合っておく方がいい。イギリスの緩和医療の専門家がこう呼びかけている。」

まだ日本ではピンとこないメッセージだけれども毎日のように増えている感染者,死者の数を見ていると日本もただならない事態に向かっているのではという危機感を覚える。死者の年代が70歳以上が多いと伝えられているからだ。

「終末期医療の専門家は、「つらい会話、しにくい会話」を誰もが大切な人としておくよう求めている。自分がもし重篤になったらどういう治療を受けたいのか、そして死後にはどういう扱いを希望するのか。」

 コロナ感染で死について身近に感じられるけれど,日頃から自分の死に際して自分の家族にはしておくべきなのだ。それが分かっていてもなかなか触れたくない話として時が過ぎていく。もう少し元気がなくなったら話すとしようかな。

「米ジョンズ・ホプキンス大学の集計によると、日本時間3月30日夜の時点で、全世界で感染が確認された人数は73万5000人を超え、死者は3万5000人近い。回復した人は15万6000人超。イギリスは1万9700人以上の感染が確認され、1231人が死亡した。」

それにしても怖いことが進行している。

 2020年(令和2年)03月23日(月)
 ズバリ「死とは何か」と題した本が目に入った。科学月刊誌「Newton」(2019年5月10日発行)の別冊で特集を組んでいる。この「Newton」が発刊されたのが1981年(昭和56年)私が32歳のときだった。その創刊号が手元にある。懐かしく久しぶりにページをめくる。当時は800円。ふんだんにカラー写真でまずパッと見て興味をそそる内容が飛び込んでくる。科学誌として画期的だったのではないか。現在のこの雑誌の紹介記事に「ページ全面に展開するイラストや美しくダイナミックな写真の数々,そして第一線の研究者に取材した正確でわかりやすいレポートがNewtonの特長です。」とある。これは創刊当時から一貫している。因みに創刊当時の編集長が地球物理学者の竹内 均さん。物理の受験参考書などを執筆しておられた。予備校の講師などで直接講義を聴くチャンスもあった。
 前置きはこのくらいにして,ニュートンで「死とは何か」をどのように展開するのか興味があるとともに少し畏れも感じた。科学的に迫っていくのだろう。表紙に綴られた文字がまず飛び込んできた。

死とは何か

死ぬとき、 私たちの体に
何が起きているのか


生と死をみつめて
日本人の死のとらえ方はどうかわってきたのか?
解剖学者と宗教学者が語る生と死
養老孟司  島蘭進

なぜ老化するのか?
老化を遅らせる 「長寿遺伝子」がある
科学的に正しい老化対策とは?

生と死の境界線
植物状態と脳死のちがいとは?
臨死体験とはいったい何なのか?

なぜ寿命があるのか?
寿命を大幅にのばすことは可能か?
寿命の起源は「男女」の誕生にあった

年とともに身近の何人かの死に立ち会った経験とここで展開されることが結びついていく。しかしそれはわずかな経験でしかない。それをテーマに研究している人達の知見は非常に興味深いものだ。上記の項目のそれぞれが多くの人が「早く教えて!」と知りたくなることだろう。
ゆっくりじっくり読んでみよう。その前にこの本の最終を飾るエピローグを読んでしまった。

エピローグ
養老孟司/島薗進

自分の生と死について、ふっと思いをめぐら
せたりすることはないだろうか。私たちが生
と死について語ろうとするとき、人それぞれ、
ことなった話をすることだろう。そこには、
育った環境, 文化や宗教, 人生経験, 職業など、
さまざまな要素が大きな影響をあたえている
はずだ。
本章では, 解剖学者として死に向き合って
きた養老孟司博士,そして宗教学者として生
と死を思索してきた島薗進教授に,生と死に
ついて,それぞれ自由に語ってもらった。

一人称の死,二人称の死,三人称の死 。
赤の他人の死がふえている

Newton――先生ご自身は,自分が死ぬことを考え
たときにこわくなりませんか。
「養老―まったくこわくありません。よく考えてみ
てください。死とは「自分を観察できなくなること」
だとすれば,毎晩私たちは睡眠という死を経験して
います。ほとんどの人は睡眠をおそれていないし、
睡眠について深く考えません。同じことが、自分の死,
つまり一人称の死にもあてはまります。
Newton―深く考える必要はない、ということで
すか。
養老―― そうです。同じことは孔子の『論語』にも
あります。孔子がある人から死についてたずねられ
たとき,次のように答えたそうです。「未だ生を知ら
,いずくんぞ死を知らん(生について十分に理解していないのに,どうして死を理解できるのだろうか)」自分の死について,理解はおろか観察できないのであれば,深く考える必要はありません。

ウーン そうかぁ!!考える必要ないのか!!」

 2020年(令和2年)01月17日(金)
新しい年がやってきた。「新しい年のはじまりに『死』について言及するのは本来はばかるべきことかもしれない。しかしあえてそのタブーを犯すのをお許し願いたい。」という書き出しで始まる一文が「しんぶん赤旗」1月15日号に掲載されていた。「今をどう生きるか 人生の終焉から学ぶ」という表題がついていた。執筆者はNHKエンタープライズ プロデューサー下村幸子さんだ。NHKで「在宅死『死に際の医療』200日の記録」という番組を手がけての考え,思うことを記している。「死は等しく誰にでもやってくる。できるならば,自分で自分のスト--リーをどう終えたいかは,考えておきたいものだと思う。」死を人生のゴールにたとへ「望むゴールへ」として『終わりを考えることは「今をどう生きるか」につながっているのだ。』と続く。『オリンピックで沸き立つ2020年。その一方で,人生の「しまい」をどうしたいのかを考えるのも悪くないと思う。』と結ぶ。あっという間にときは過ぎていく。70歳を迎えたと思ったらもう8ヶ月が過ぎ去った。ゴールがぐんぐん近づいている感じだ。ランニングならばゴールが近づくにつれ達成感と高揚感でゴールのゲートをくぐるだろう。「死」というゴールゲートにもそのような達成感と高揚感でくぐり抜けられるように準備しよう! 
2019年(令和元年)11月29日(金) 
2012年12月20日の日付で「週刊現代」に掲載された記事を見つけた。
表題から読むのをためらったが,なるほどという思いで読み終えた。その一説を引用

死ぬ瞬間はこんな感じです。死ぬのはこんなに怖い

「小学校2年生のとき、『自分が死ぬこと』ばかりを思って、毎晩のように泣いていました。たとえ死んでも、人の意識はしばらく肉体に留まっていると考えていたからです。その状態で火葬されれば、棺が炎に包まれて、棺の中にいる私に刻々と迫ってくる。あるいは、土葬で埋められた私の体中に蛆が湧きはじめる。それを思うと恐ろしくてどうしようもなかったんです」
そう語るのは芥川賞作家で臨済宗妙心寺派福聚寺の玄侑宗久住職だ。
人は必ず死ぬ。たとえ、どんなに老いに抗い、健康を維持しようと努めても、死は万人が受け入れざるを得ない宿命だ。
では、死ぬ瞬間とは一体、どんなものなのか。暗闇に入るものなのか、痛いのか、何も感じないのか。」

そして最後次のように締めくくってあった

「人間は死ぬために生きている。刻々と死に向かっていくことを理解して、老いや病を引き受ける。それが我々が目指すべき、恐怖を感じず死を迎える理想的な方法かもしれない。」

一日一日を覚悟を持って行きていこう!
2019年(令和元年)05月21日(火)
 九州,高千穂での葬儀に参列した。わずか6人の参列者。そしてその中で私が1番喪主となることが自然だった。幼き頃お世話になった父の田舎宮崎日之影町,五ヶ瀬川の清流が流れ変化に富んだ地形に濃い緑が大地を包んでいる。懐かしいおじさん,おばさん親戚の人達がいなくなっていく。寂しい。年をとり長く生きるということは多くの思い出と多くの人との別れがあるのだ。
 火葬場もてんてこ舞い。3つの炉しかないのにその日は6人の方の葬儀だ。仮通夜,通夜,告別式と続くが告別式の前の朝に火葬してお骨の状態での告別式となった。厳粛に最後のご挨拶まで責任を果たすことができた。
 参列者の方からのこの地域での死者を葬る話し,過去埋葬が認められていたときのお話などを聞くことができた。
埋葬の際の葬列で貧弱なお棺がこわれ中から死人が出てきて驚いた話しなど笑うに笑えない話しなどがあった。 
2019年(平成31年)02月23日(金)
 年が明けてあっという間に2ヶ月が過ぎ去ろうとしている。こんな調子で時が流れていくと自分の人生を終了する(死)もすぐそこまできているような気がする。自分で決めた「余命」,次の誕生日まで3ヶ月を切った。就寝するまでへとへとになるくらい毎日やることが多いことは喜んでいいことなのか。その中でも死についての考察をした文書などを読みたい。
「95歳の著者からの最後のメッセージ」の文字に引き寄せられた。今や80歳といってもあまり感じなくなった。
「冥界からの電話」佐藤愛子 「これは本当にあった話しです。無理に信じよとはいいません。信じるも信じないもあなたの自由です。『死』は『無』ではなかったのです。」 「人が死んだときどうなるのか。無になるのか。死後の世界があるのか。それに対する答さえも絶対の正解答は内のです。,,,,,,,,」「ある日,死んだはずの少女から電話がかかってきた。一度ならず,何度も。そして生きていた頃と変わりのない声で会話を交わす。一体これは何なのだろう,,,,,」「死は人生の終点ではない。肉体は消滅しても魂は滅びない。死は続く世界への段階です。まだ続きがあるのです。」大正12年生まれは私の母とほぼ同じ。小説家で社会に対してもしかりと発言しておられる。その方の本とあってこの中身を信じたい,いやそうあって欲しいという思いで読んだ。今妻の声,そして父,母の声をききたい!電話を留守電にして一切外からの電話は取っていないがひょっとして冥界からの電話があるかも知れない。スマホでいろんな情報を得ることができる。私達はその仕組みを知らないけれど使っている。目に見えない電波を受信しているスマホ。目に見えない冥界からの何かがあるのかないのか。
2018年(平成30年)12月28日(金)
 2018年(平成30年)も終わろうとしている。「りょうさんは家族の一員のつもり」といってくれていた頼りの相棒が亡くなった年として忘れない。家族とはお互いの日々の動きを知ってその存在を感じるだけで安心する。遠藤さん(とっしーさん)とはそんな関係でもあった。亡き妻とも1年違いの年齢だった。若すぎる死の直前まで一緒に行動を共にした。そして7月13日にまた一緒に「風の村デーサービス」でボランティアのライブをやる予定だった。その日に悲しい連絡があった。即とっしーさんの自宅に向かった。「とっしーさん!よく頑張ったね!ありがとう!」の声をかけるのが精一杯だった。日本で世界で多くの人の死を聞いた,しかし身近の人の死は自分の中からその存在がいなくなることでその心のバランスが崩れいいしれぬ空虚感,寂しさに襲われる。 
2018年(平成30年)11月22日(木)
 2018年(平成30年)も終わろうとしている。平成という元号も来年の5月1日から新しい元号に変わるという。この1年も多くの生と死が連綿と続いた。身近には私のごく親しい友人の死,友人のお母様の死があった。それぞれに与えられた生をどのような死で締めくくるのか,考えさせられる1年となる。ゆっくり寝る前の短時間の読書が楽しみだ。その中で山田風太郎「人間臨終図鑑」という本に巡り会えた。山田風太郎という作家の生き様も興味深い。人間臨終図鑑は十代で死んだ人々二十代で死んだ人々三十代で死んだ人々,,,,といった目次がある。一人一人の死について山田風太郎が書いている。【「十代で死んだ人々】 知らず,生まれ,死ぬる人,いずかたより来ていずかたへか去る。鴨長明『方丈記』 一番目に八百屋お七(1668年〜1683年)15歳江戸時代に生きた人だ。恋い焦がれての犯罪 1年違いで鈴ヶ森で火あぶりの刑に処せられたとある。この若さで火あぶりの刑になったのは徳川時代でも前代未聞であった。と記述している。数え年16歳から成年であったという。
 あーあとため息が出てしまう。現代に近い有名人から歴史上の人までよくも集めたなと思われる人の臨終。寝る前に読むのにいい本かも知れない。  
2018年(平成30年)9月21日(金)
 敬老の日(17日)になるとこぞってメディアは老人にスポットとを当てた話題を特集する。人ごとのように迎えていた敬老の日の「主役」に近づいてきたことを感じるが,今や敬老に当たる年齢の領域がだいぶ変わってきたようだ。
『「人生100年時代」と言われる中、100歳以上の高齢者は2018年9月1日時点で全国に6万9785人いることが厚生労働省の調査で分かった。1970年から48年連続で過去最多を更新中だ。』という記事があった。70歳過ぎても老人とは言えなくなるなるのか。それはそれで喜ばしいけれどもそれと合わせて「高齢者孤立と届かぬケア 多死社会」という見出しが躍っている。2025年問題団塊の世代すべて75歳以上(後期高齢者に)と続く。話題の団塊世代当事者としてはあまり気分はよくない。その後に続くことばは「だから若い世代は大変だ!」だからだ。本当に腹立たしい限りだ。そんなことずーっと前からわかっていることだ。それへの対策を十分にやることが政治の仕事だろう!
政治の世界の不正の数々,人殺しの武器に大変な額の予算がつぎ込まれている。国民ほとんどの人がまじめに働き続けているのに報われないこの仕組みがもう限界に来ているということだ!とちょっと怒りの弁になってしまった。みんなが安静な死を迎えられるような社会をつくりたい! 
2018年(平成30年)7月23日(月)
7月13日(金)私の親しい友人遠藤俊弘さんが亡くなられた。
一緒に長期間バンド活動してきた。最後までそれへの情熱を燃やし続け病と闘った。その生き様は多くの人を呼び寄せ覚悟の決まった歌は聴く人のからだにしみこむようだった。そしてその姿は輝いていた。自分の最期はどうするかみんなに投げかけた見事な生き方だった。このホームページとも深く関わってくれた遠藤さん。どこかで見てくれていると信じます。 
2018年(平成30年)5月22日(火)
オーストラリアの宿泊所近くに植物園があった。気ままに初めての道をどんどん進んだ。静かな開けたところに出てきた。墓地だった。多くの人が眠っている。しばし合掌してお墓の一つ一つを見てみた。自分と同じ生まれの人だとか生前活躍していたようすが墓標にも記されていた。オーストラリアの人も同じ!みんな死ぬんだよな。お墓は生きている人の精神的な支えだよな。人という生き物だけがそういうことをしている。異国の広大なお墓にたたずみいろんな思いがわきでてきた。
2018年(平成30年)3月7日(水)
2月に101歳でなくなった叔母の法要で九州に出かけた。自分の父母に当たる世代の人だ。看取った方が最期の様子を話してくれた。眠るようになくなったという。自分がお見舞いに伺ったときはもう人を認識できなくなっていた。最期はどうありたいか。人の死に向き合うたびに考える。「認知症とかぼけとかになりたくないから何々する。」ということをよく聞く。ぼけは死の直前には必要なのではと思う。 
2018年(平成30年)2月21日(水)
仏陀「ブッダ」という演題の「わらび座」企画制作のミュージカルを観た。手塚治虫原作の作品だ。”ブッダシッダルタは我が身の周りを見渡し,人間は死ぬのになぜ生きるのか,人間の幸せはどこにあるのか。最期まで自らに問いかけ追い求めた人物です。”とチラシにあった。この作品を2日続けて鑑賞した。最後には仏陀役の俳優さんに自然と手を合わせたい衝動に駆られた。仏陀をもっと知りたいと思った。 
2018年(平成30年)1月22日(月)
また新しい1年が始まった。いつものように正月を迎えいつものようにお墓参りをしてといういつものように何々できることをありがたく思う。そして今年もいつものように死を意識しながら瞬間を大事にして生きていきたい。 
2017年(平成29年)11月22日(水)
「孤独のすすめ」人生後半の生き方 五木寛之(2017年7月初版) という本を寝る前15分読んだ。1932年福岡県生まれ,私より17年先輩だから85歳になるのかな。今生きている人そして私よりずっと年上の人のお話は聞きたい。しかも「孤独」が素晴らしいとはどういうこと?
「人生は,青春,朱夏,白秋,玄冬と四つの季節が巡っていくのが自然の摂理です。玄冬なのに青春のような生き方をしろといっても,それは無理です。」「テレビ番組などではよく,90代でもジョギングや水泳や車の運転を楽しむ人などを取り上げますが,ごくごく稀な,特殊な人だけです。」自分の回りには元気な老人が多く100歳までランニングを目標としている人もいる。自分もそうありたいと思うけれどもそういうことができると言うことは特殊だという。特殊でない多くの人へのメッセージになっている。今自分は元気だから「特殊な人」を目標にするなんていえるのかもしれない。フルマラソン走ったり,100km走ったりそんな元気でなくてもいいんですよというメッセージに受け取れて少し気が楽になった。「孤独を楽しみながらの人生は決して捨てたものではありません。それどころか,つきせぬ歓びに満ちた生き生きした時間でもあるのです。」といって振り返るために思い出となるものは捨てるなと説いている。「最近の風潮としてとにかくモノは捨てた方がいいとされている。3年使わなかったモノは捨てろ,着ない服や靴は処分しろと,雑誌などでもさんざん捨てることを煽っています。親の家を片づける親片なる言葉までできて,子供たちは親に持ち物を捨てさせようとする。」 「シフトダウンして生きる」 
特に深く進む「嫌老感」についての詳しい記述は考えさせられ老人の立場から自覚させられた。  
2017年(平成29年)7月20日(木)
7月18日105歳の医師、作家日野原重明さん死去の報にしばしこの方の人生についての記事,資料を読んだ。98歳から「俳句でもやってみるか」と
始めたという。人間ドックの導入,成人病といわれた病名を生活習慣病という名称に変更するように提唱した医師だという。とにかく100歳を超えての活動に目を見張る。 
2017年(平成29年)6月20日(火)
6月5日から東北を旅した。あれ?こんなところに「サトーハチロー記念館」いろんな詩を作った人ぐらいの知識しかなかった。文京区小日向台町小学校卒業の文字でグット興味を持った。自分が勤務していた文京区中学校の学区域の小学校だ。さっと見て出るつもりがじっくり見ることになった。面白い人に出会えた!という感じだ。たくさんの詩を書いているがそれだけではない。

 命
長きはよし 
みじかきもまたよし
ただその命を
美しくつらぬくがよし
やさしく生きぬくがよし
 
因みにサトーハチローは70歳でなくなっている。
2017年(平成29年)1月21日(土)
 新年を迎えたと思ったらもう正月気分も消え去り日常の生活が速いテンポで進んでいくような気がする。本当に時がたつのはやい。
この時期になると昨年2016年を振り返る「数字」が発表される。
厚生労働省と警察庁は20日、2016年の全国の自殺者数(速報値)が前年より2261人少ない2万1764人となり、減少率は過去最大の9・4%、7年連続の減少で、22年ぶりに2万2000人を下回ったと発表した。 自殺者のうち、男性は1万5017人で全体の約7割を占め、女性は6747人で過去最少。原因・動機別(複数計上)では、健康問題が最多で1万63人(前年比1128人減)、次いで経済・生活問題3234人(同539人減)、家庭問題3053人(同322人減)、勤務問題1839人(同160人減)など。 40歳代が最多の3442人(同344人減)で、以下、50歳代3345人(同322人減)、60歳代3323人(同318人減)。未成年者は前年より38人少ない487人だった。」 
この数字を見てため息が出てしまう。前年より少なくなったといっても2万人以上の人達が自分で自分の命を絶ったのだ。
2016年(平成28年)11月24日(木)
 老前整理とか人生終わる前にやっておきたいことを題材とした本を読んだことがある。それを参考に自分の身の回りの整理を心がけているけれどなかなか進まない。妻の遺品もまだ手つかずで一部屋占領している。かたづける気がしない。その部屋に入るのもつらい。最近片付けの一つとして今まで録画した大量のテレビ番組の整理を毎日少しずつ始めた。題名を見ただけで消去,少し再生して消去とできるだけ残さないつもりで進めている。そしてある日ある番組に目を奪われた。NHK BS世界のドキュメンタリー 「スティーブジョブズーカリスマの素顔ー」 スティーブジョブズについては天才的な頭脳,アップル社の創設,若くして起業に成功し巨万の富を得た人ぐらいの知識だった。大変気になる人になったのは2011年10月5日56歳で癌のため死去の報が印象深く自分の記憶に残っているからだ。同じ年6月20日妻が闘病の末に54歳で亡くなった。一つ一つの映像とその仕事ぶりは世界を変えた人として驚異的だ。そしてその行く手を阻んだ病魔との闘いもきっと全力を尽くしたのだろう。ジョブズがスタフォード大学で学生達への講演の場面で画面を一時停止して聞き取った。「自分がもうすぐ死ぬと理解することが大きな決断をくだす重要な助けとなります。人生は有限です。自分らしくない生き方をして時間を浪費せず自分の心と直感に従う勇気をもって下さい。貪欲であれ,愚直で荒れ。」死を目前にした切実さが伝わってくる。その無念さは程度の差こそあれ妻の無念さと通じるところがある。
2016年(平成28年)8月21日(日)
 「健康寿命」ということが新聞の特集記事にあった。「介護を受けず自立して生活できる期間」を示すとあった。健康寿命の日本の平均値が男71.19歳女74.21歳。一位が男女とも山梨県で男72.52歳女75.7歳だという。このようなデータが都道府県別に計算されているというのも興味深いことだ。因みに世界的には日本が一番で中国67.7 69.5韓国70.8 75.3アメリカ67.7 70.4英国70.3 72.5そしてシエラレオネでは43.9 44.8。どのデータも女性が男性を上回っている。ということは私の年齢からすれば日本の健康寿命の平均まで生きることができるならあと5年ということになる。自立して生きている今!これからの一日一日がかけがえのない時間に思える。そして自立できなくなったとき人生の終了(ゴール)を全力で駆け抜けたい。 
2016年(平成28年)7月20日(水)
 あの人が生きているから励みになる。そんな存在が永六輔さんだった。7月7日亡くなられた(83歳)。与那国島にいるとき訃報に接した。京都でのよい宵山コンサートで元気に司会する永六輔さんも見てきた。ただ自分がこの人とは通じると感じたのは「あの世の妻へのラブレター」を読んでからだ。「経験しないとわからないよなぁ。」と思うことを世に著してくれている。そしてこの本をヒントに毎月「裕子さんへ」を書いているようにおもう。永六輔さんは「貴方が亡くなってから毎日書き続けている絵はがきはまもなく千通を超えます。切手を貼ってポストに入れて配達されるのを楽しんでいます。」と書かれている。
以下「あの世の妻へのラブレター」より引用
 「昌子さん。戦争で、病気で、犯罪で、事故で。いろいろな理由で大切な生命がうしなわれてゆきます。中にはテロリストに人質にとられ、首を切り落とされ、それをテレビで放映される人もいます。少女に殺される幼児もいます。生命が大切にされていない時代に、たかが男やもめになった愚痴を書くのも、それを読むのも何と無駄な時間だろうかと思いながら、それでも書き留めておきたいことがあります。生命をいとおしむという行為そのものは、戦争で失っても、病気で失っても同じだからです。」「寂しいのは耐えられます。悲しいのも耐えられます。虚しいのは耐えられません。毎日、自分で自分のカウンセリングをしているのですが、結構気が紛れるものです。」

 永六輔さん、奥さんとお会いできるのですね!(合掌)
2016年(平成28年)5月21日(土)沖縄で20歳の女性の若い命が断ち切られた。「またか!」アメリカ軍関係者の犯罪だ。「ちびまる子ちゃん」お姉ちゃん役の声優、水谷優子さんが乳がんで亡くなった。51歳だった。乳がんという言葉とともに思い出す。闘病の日々。能力のある人が急速に一つ一つ「できた」ことができなくなっていく。本人のつらさとそれを見ている者の辛さ、若すぎる。

 9Reasons Why People Who Constantly Think About Death Are More Alive
常に「死を意識している」人達が、人生を最高に楽しんでいる9つのワケという翻訳されている読み物を見つけた。今の自分の生き方を表現してくれていると思った。
 朝の目覚めとともに、今日も生きていた!今日は死ぬかもしれないと思いがつきまとう。
父、母の死、そして妻の死が死を近づけてくれた。「もう60過ぎればいつ人生終わってもいいでしょう。」と人前で公言することもある。それは自分に言い聞かせていることだ。だから今やれること、やりたいことを即やるようにする。9つのワケを一つずつ見ていく。

(この後ネットからの引用)
「常に、死を意識することのススメ」と題した記事をご紹介します。なんて、唐突に言われても、私たちが常日頃から、死について考えているかといえば、そんなに多くはないでしょう。私たちは普段、目の前のことのために時間を使い、心配したり不安になったりしています。でも、死について考えることが、その不安からあなたを解放してくれるとしたら…?私たちが、死を意識することは、実は自由を手にすることなのかも。
01.
自分の物語を
俯瞰的に考えることができる
どんな物事にも、必ず終わりがあるものです。その「終わり」を意識することで、「今」を最大限楽しむことができるのです。
私たちを邪魔する些細なことから手を離し、短い人生の中の「終わり」を意識してみましょう。そういう視点を持てると、長い行列や電車の遅れ、悪天候だって楽しむことができるはず。
02.
八方美人なんて必要ない
本当に大切な人と付き合える
自分の時間を台無しにするような人とは、付き合わないようにしましょう。常に死を意識している人は、自分の生活に新たな価値観や深みを与えてくれる人とだけ付き合っています。彼らは自分が「有害」だと判断した人付き合いは早々に打ち切り、いいと思った人とは、すぐに仲良くなります。なぜなら彼らは、自分たちの時間が有限であることを知っているからです。
03.
お金を無駄に溜めないで
自分の投資のために使える
貯金は大切なことかもしれません。でも、「後々の生活に必要だ」と思って貯めているお金は、いったいいつ使うのでしょうか?人生は一度きりだし、同じ日は二度と訪れません。
いつかは使ってしまうお金ですから、二度とない一つひとつの経験や瞬間を味わい、楽しみましょう。その時々の体験に集中しましょう。常に死を意識している人は、お金の使い時を知っています。
04.
失敗や挑戦に
怖がらなくなる
もし、間違えてしまったら…。そんなこと、死を前にしたら、ちっぽけなものです。死とは、あなたが知っていて愛している全てのものからの別れ。それと比べたら、あらゆる脅威は大したことではないのです。死を意識することで、生きているときに訪れる恐怖を、和らげることができるのもの。
05.
常に、死ぬ気で。
ベストを尽くす
「いつかは自分も死ぬ」ということを意識する。それは明日かもしれませんし、一ヶ月先かもしれません。でも、この意識を持っていれば、死ぬ前に自分の足跡を世界に残さなければと思い、常に高いモチベーションをキープすることができるのです。
黒澤明監督の「生きる」という映画では、死を前にした主人公が、死ぬ気で働いて一つのことを成し遂げます。そして彼が死んだ後に、葬式に参加した一人が、「死ぬ気でやれば誰だって成功できる!」といったのに対して、「あなただって明日死ぬかもしれないんだぜ?」という言葉を投げかけて、映画が終わっていきます。
死と向き合うと、いつまでも人の記憶に残るような、素晴らしい功績を残そうと思うのではないでしょうか。
06.
他人に期待するのではなく
自分をもっと信じるようになる
全ての人やモノがいつかは消えてしまう。ということを理解できれば、それらに過剰な期待をしすぎることはありません。もちろん、人に失望することはあるかもしれないですが、「失望した」と思えること、そういう感情は、自分が生きているからこそ抱くことのできるものです。その重要さを噛みしめれば、冷静に現実的に、物事に接することができます。
07.
小さなことにこだわらず
無駄に汗を流さない
死を意識することは、物事を正しい方向へ導くことでもあります。だから困難にぶつかったとき、目の前の小さなことに、本当に向き合うべきかどうかを考えてみましょう。
あなたはそこから離れることも、他にもっと楽しいことを見つけることもできます。常に死を意識している人は、そのことをわかっているはず。
08.
幸せになることに
集中できる
私たちはいつか必ず死んでしまいます。だとしたら、好きなときに好きなことをしましょう。あなたが誰かを愛しているなら、その人と一緒に過ごすこと。スイーツが好きなら食べて、海が好きなら海の近くに移住したっていいんです。
人生は限りある短い時間ですから、あなたが幸せになるために、全ての時間を使うべき。
09.
やるべきことでなく
やりたいことに没頭できる
常に死を意識している人は、社会規範やルールに縛られません。彼らは望むときに、やりたいことをします。彼らはそれこそが人生の重要なポイントだと信じています。常に直感に従い、自分の心の思うままに動いていきます。 
2016年(平成28年)4月21日(木) 4月14日21時26分熊本県を中心に連続して大きな地震が発生して1週間。今も強い地震が続きおさまる気配がないという。そして毎日のように地震による死者の数が増えている。 日本列島の成り立ちを見ると地殻変動の連続だ。体に感じない地震が常に起きている。常にゆれていることが「普通」という認識に立ってこの大地で暮らしていかなければならない。この災害による死は誰にでも起こることだ。犠牲になられた方の無念さを心に刻もう。
2016年(平成28年)3月21日(月)運命 
2016年(平成28年)2月22日(月)死後の世界があると信じられたら楽だろうなぁ。ここで死んだら死後の世界にいい思いができると信じているからなのか自分の命を自分で絶つ。頻繁に自爆テロという言葉で事件が伝えられる。それの巻きこまれた人の命は何とむごいことか。そしてそのようなことをやれる人の精神状況はどうなのだろう。自発的なのか、生きていることが辛いからなのか。自分は考えるだけで恐ろしく思う.。Wikipediaをのぞいてみた。哲学者の樫山欽四郎という人が『「人間が他の生物と異なる一つの特徴は人間はすべて(自分自身も)やがて死ぬということを「知っている」ことだともいう。』 そうかなぁ?
2016年(平成28年)1月28日 私はお会いしてお話を聞いてみたい人に瀬戸内寂聴さんがおられる。95歳になられるのに要所要所でしっかりと発言されている。亡くなられた野坂昭如さんを偲ぶ瀬戸内さんの文章に目がとまった。「長命はおめでたいと言われてきたが、今や日本は働けなくなった老人が死ぬに死なれず動きも不自由になり、育てた子や孫にうとまれながら生きつづける悲惨を味わっている。これだけは味方と思っていた配偶者が、呆けたり死んだりすれば、残された夫や妻の老後の悲惨さは底を知れなくなる。どう考えても今の世の中で、長寿はめでたいと単純には言えないと思う。しかし人間には定命があり、その時が来なければ死ねないのである。」
太字は私がつけたもの。寿命でなく「定命」がありということ、95歳の寂聴さんの話だからか納得するのか。「定命」まで悲惨でない生き方をすることは容易でないと思った。私はもうすでに心の支えの妻を亡くして5年。自分を保つことがたいへんだ。これからがもっと大変になるのだろう。
2016年(平成28年)1月20日正月早々、日本国内で多くの死が報じられている。特にこれから輝ける人生が期待されていた若者の死は受け入れがたい。家族の思いはいかばかりか。現役のとき中学1年生の女子生徒が病気で急死した。そのとき母親が「あの子は留学して海外で生活していると思うことにしました。」と家庭訪問したとき自分に言い聞かせるように語っていたことを思い出した。辛いことだろう。  事故が単なる個人の失敗でなく社会の構造的な無理から起因していることが腹立たしい。 眠たいけれど運転しなければ、体調悪いけれど運転しなければと走っている車が多いのだ。
2015年(平成27年)12月20日1年が終わろうとしている。二人の身近な人を失い死の重みを改めて感じた1年でした。そしてまた多くの有名な人も亡くなりました。
12月9日に野坂昭如さんが85歳で亡くなりました。私より19歳年上だから、私が若い頃にはもう活躍していた。テレビにもサングラスをして早口でこの人どんな人とインパクトがあった。その後「火垂るの墓」の作者であると知り戦争を体験したことをしっかり私たちに伝えようとしている気骨のある人なのだと見直したものでした。喪主の妻暘子さんの挨拶に「野坂は亡くなる間際まで言い続けた大事な言葉。『戦争してはならない。巻き込まれてはならない。戦争は何も残さず、悲しみだけが残るんだ。』野坂は生まれて二ヶ月で母親と離されてしまい、母親の顔を知りません、、、、、目を閉じた顔は美しく穏やかで初めて見る表情でした。、、、、、ちょっとうれしそうな笑みは母に抱かれた昭如少年だったに違いありません。、、、」野坂さんのホームページに「旅の果て日記」「覚え帖」が公開されている。読んでみようと思う。 
野坂さんが言い続けた大事な言葉をしっかり胸に生きたい。
2015年(平成27年)9月24日(木)一人の死に立ち会いました(19日)。「とうさん!」「おじいちゃん!」の必死のかけ声に応えることもできずに静かに息を引き取りました。68歳でした。一緒に過ごした日々が脳裏で早送りのスライドショーのように巡りました。年を重ねるということはこういうつらい経験を乗り越えていくということなのか。気が動転している近しい人たちに寄り添いこれから見送る段取りの相談にも立ちあえるようになっている。経験したくない経験が重なり死を身近に感じることになるのか。
・新聞の訃報に黒木奈々さん(32歳)23日胃がんのため死去とあった。NHK・BS1「国際報道」のキャスターだった。私の好きな番組で知的で美しい人だと思っていた。どんなにか辛かったことだろう、未来輝ける人なのに。 24日同じ日に女優の川島なお美さん54歳胆管がんのため死去忘れられない54という数字だ。
2015年(平成27年)8月20日(木)元同僚が亡くなられた。62歳でした。数学を教え学年をともにして大きな力を発揮した素敵な女性でした。何はさておき駆けつけなくてはと猛暑の中の通夜に参列しました。そして会場に入るとともに4年余り前の妻の葬儀が脳裏にはっきりと見えてきました。集まった人々の何げないヒソヒソが耳に入ります。「まだわかいのに」「まだわかいのに」「がんを患っていた」54歳で亡くなった私の妻最近発表された日本女性の平均寿命86.6歳で世界一だという。何ということでしょう。通夜の会場を一番先にとびだした。
2015年(平成27年)5月20日(水)人の死と自分を重ね合わせるときがある。やはり生きているときにはわからなかったことを詳しく知る機会が死なのだろう。特に有名人と言われる人たちの死は大きく取り上げられる。ひょんなことから宮尾すすむさん(享年77歳)が気になった。妻と同じ年2011年7月に亡くなられている。「軽妙な語り口でテレビのワイドショウのリポーターとして活躍、なかでもテレビ朝日系のワイドショウの企画「ああ日本の社長」は人気を博したとある。1934年生まれ私より15年先輩である。旧満州で生まれた。あの喜劇的な明るい顔をいつも私たちに見せていた。1994年夏、愛妻で元全日空客室乗務員だった山口明美が47歳で死去とあった。奥さん死後、自身も様々な病魔と闘っていたことを知った。つらかっただろう!!
 テレビをつけたらたまたま2002年11月17日に、NHKホールで一度きりのコンサート『新結成記念解散音楽會』ザ・フォーク・クルセダーズの再放送をやっていた。「帰って来たヨッパライ」
は私が18歳のときヒットして今でもその音が耳に残っている気がするほどのあっと驚く曲だった。そんなザ・フォーク・クルセダーズのライブ懐かしく楽しかった。終わってから何か気になった加藤和彦。あーやっぱりそうか2009年首つり自殺をしていた。(62歳)2年年上の団塊世代だ。 遺書には「世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。死にたいというより、消えてしまいたい。」と綴ってあったという。ライブではあんなにいい顔をしてつやつやとしていたのに。最高のミュージシャンだったのに。何が苦しかったのだろう。
2015年(平成27年)2月2日(月)身近な人の死に向き合っています。そして時を同じく身近でない人、無理やり死に追いやられたやさしい人の死を考えています。 
2015年(平成27年)1月20日(火)日本人が人質に捕られた。明日の午後2時過ぎがタイムりミットだという。ネットがなければ成り立たない犯罪だ。ナイフをかざす覆面姿の男が立っている。そしてこれまでにその殺人の映像を流してきたものたちだ。なんという悲劇だろう。自分がこのような場面に立たされたらと考えるだけで恐ろしい。寿命がだれにもある。しかし生き物としての人の死の直前は,その死の恐怖から逃れるためなのか普通の自分ではない状態になる。ボケて動きまわられたら迷惑だけれど,死の直前はボケることで恐怖から逃れられるのかもしれない。意識鮮明のまま自分の意思に反して暴力的に命を絶たれる瞬間を待つ。これほどの悲劇はない。何とか救出してほしい。祈るばかりだ。 
2014年(平成26年)12月26日(木) 12月22日笠木透さん77歳,11月28日菅原文太さん81歳で亡くなった。11月10日高倉健さん83歳で亡くなった。。日本を代表する俳優の死は多くの人たちにその映像とともに自分の過去を振り返る機会を与えてくれた。笠木透さんはその詩を残してくれた。人の死が多くの人の思い出を呼び覚ます。俳優という人前に出る仕事をしている人の偉大さを感じる。毎日のように何人と名前でなく数であらわされる多くの死。その一人一人に歴史があるのだろう。
2014年(平成26年) 8月20日(水)毎日のように多くの人の命が理不尽にも失われている。ウクライナ,シリアでは激しい戦闘が,ギニア、シエラレオネなど西アフリカを起点に、猛威を振るっているエボラ出血熱。死者は1200人を超えたという。毎日報じられるニュースに気が重くなる。
2014年(平成26年)5月21日(水)毎日のように多くの人達が理不尽な死で二度とない人生を断ち切られている。20日ナイジェリアで車の爆弾が爆発118名の人の命が奪われた。4月16日韓国で旅客船の事故で多くの命が絶ちきられた。しかも多くが修学旅行中の高校生だった。何とも心がおさまらない。 
2014年(平成26年)1月24日(金) 新聞の一番下の訃報の記事は何故か気になる。いつものように見て思わず「あっ」とつぶやいた。佐久間正英さん61歳。
「日本の音楽業界の第一線で活躍してきた、ミュージシャンで音楽プロデューサー」とその死を報じている。私はこの人を最近知った。たまたまテレビを見たら佐久間さんの仕事ぶりを密着取材しているドキュメンタリーだった。入院している病院からスタジオにきてきつそうに仕事をされている場面もあった。誠実な顔立ちとその才能豊かな仕事ぶりが紹介され思わず見入っていた。10ヶ月の闘病だったという。家族,本人の気持ちが自分の心に響いてくる。無念だ。
2013年(平成25年)12月23日(月),2013年も後残り少ない。今年もこの1年で亡くなられた有名人が新聞で特集されるだろう。私の妻が亡くなった年に亡くなった人を記録にとどめている。キャンディーズの田中好子さん,アイドルから演技は女優として認められこれからの活躍を期待された人だ。彼女が4月妻と同じ病期で亡くなったことを妻と一緒に入院先の病床で聞いた。妻の落胆する姿,どのように励ませばよいか辛かった。彼女は55歳。そして妻は6月に亡くなった54歳。何故か妻と同じ年に亡くなった有名人がいとおしく思う。そしてつい最近12月5日南アフリカのネルソン・マンデラさんが亡くなられた。ケープタウン2ヶ月,コムラッズマラソン3回完走と南アフリカを知るチャンスを得た。まだまだ安全とはいえないが,私がランニングできた南アフリカ。その礎を築いた人として身近にその偉大さを感じた。南アフリカ大使館に記帳にいった。こんな気持ちになったマンデラの死。その成し遂げた事を忘れまいと言う気持ちだった。そしてこの人は幸せな人だとも思った。27年にも及ぶ牢獄生活にも耐え,95年という人生を全うできた。54歳で人生を終えた妻をみて,どんなに劣悪でも生き続けられる人,どんな環境が良くても病で倒れる人。どのように考えればいいのだろう。この頃90台でなくなる人が多く目につくような気がする。寿命というのか。 
2013年(平成25年)9月26日(木)「ぼくがいま,死についておもうこと」 椎名 誠 69歳(私は64歳)妙高高原の宿舎に向かうバスのなかで読み終えた。自分が予想した内容とは違ったものが多かった。鳥葬,風葬,様々な葬式。日本での死んだ人達への儀式の不自然さと合理さを感じる。そして私が今考える死への認識について共感できる記述があった。「自分の死に関して『そうか,自分もいずれ死ぬのか』と初めて意識したのは,,,,,,,『ことによるとシーナさんは,まだ一度も自分の死について真剣に考えたことがないんじゃないですか。』」 私は毎日死と向かいあって生きようとしています。私が立ち会った死は父母,母は父の死後自分のやりたいことをたくさん述べて果たさずに死んだ 。私はその不幸を悲しんだ。しかし妻の死が自分の生き方を変えた。母は子供を産み孫に恵まれ生きた。そして80歳を前に人生を終えた。妻はそうでなかった。無念の気持ちが私の心を満たしている。私は,もういつでも人生を終えていいと覚悟ができた。死についていろいろな人の考えを知り自分の覚悟を確かなもののしたい。 
 2013年(平成25年)5月21日 「悲しみの乗り越え方」という本を読んでいます。人生という「喪失の連続」を生きるための処方箋。という副題がついています。「悲しみにさいなまれた人々へ,生き上がる力を与える書。名著として推薦したい。」と日野原氏が推薦しています。
多くの人の悲しみの近くにいて活動されているグリーフケアーと呼ばれる研究をしている人の書です。いろんな人がいるんだと思いました。自分の生き方もこのような書に頼らなければならない。でも読書すると気持ちが落ち着きます。「人生という喪失の連続」という言葉はなるほどなと思います。
 2012年(平成24年)10月1日(月) 「思いだし寄り添いゆく 妻を亡くして 喪失感とどう向き合う」こんな題字ひかれました。新聞の記事です。「宮中歌会始の選者を務め、天才歌人とも称された河野裕子さん64が亡くなったのは2年前のこと。」という書き出しでした。私の妻裕子と同じ名字。「夫で歌人、細胞生物学者の永田和宏さん65はこんな歌を作った。『1日が過ぎれば1日減っていく君との時間 もうすぐ夏至だ』」「2年たった今、永田さんはこんなはずではないと感じている。確かに帰宅しても「おかえり」は聞こえない。話しても相づちはない。寂しさはあり恨みがましいことを語りかけることもある。」胸に響く。
わたしは死んではいけないわたしが死ぬときあなたがほんとうに死ぬ 死者が生き続けられる場は、生きている人の記憶の中だけ。僕が生きる限り、彼女はこの世とつながっていられる

周囲から「時が癒す」と慰められた。しかし「僕は癒されたくない。無理に忘れようとしないことが大事だ。」      

                    慰められた。           
  2012年(平成24年)7月27日(金)「女性の寿命2位転落」が今日の新聞の一面にありました。2011年の平均寿命女性85.90歳 男性79.44歳。「多数が志望した東日本大震災が大きく影響している。」「二十代の女性の自殺者が高まった。」のが原因らしいとの説明だ。この数字を見ると平均に達しないでなくなった人の命の無念さを感じる。寿命とは持ってうまれたものなのか。寿命を全うすることが大変な気がする。明日が自分の命の最後かもしれない。寿命を知らないから平然と生きていられるのか。
2012年(平成24年)7月8日(日)余命。この言葉を身近で聞いてきました。辛いことでした。
それは大きな病をした患者に医者が口にすることでした。身近に一人の死を看取りふと自分の余命が大きく見えてきました。まだ元気だから月単位の余命でいいのかな。65歳誕生日に「人生終わる日」の予定と入れてみました。限られた余命を意識するとこれからの一日を濃密に過ごしたいと言う思いが強くなります。後1年と10ヶ月(22ヶ月)の余命のつもりで生きていきます。 
 2012年(平成24年)6月9日(土)  南アフリカから帰国した翌日久しぶりに日本の新聞を見た。『天皇陛下のいとこで「ひげの殿下」と親しまれた三笠宮家の長男寛仁(ともひと)さまが六日午後三時三十五分、多臓器不全のため、入院先の杏雲堂病院(東京都千代田区)で亡くなられた。六十六歳だった。』全く縁のない人だけれども, 『九一年一月以来、食道や喉、口の周辺にできたがんに関連する手術を十六回受けたが』の記事に心が締め付けられる。どれだけ辛かっただろう。でもそれを前向きにして皇室の枠からはみ出るような人間的活動に貢献されたとの内容。人間必ず死ぬ。その間に自分は何ができるだろう。自分は66歳まであと2年と11ヶ月。やらねばならないことがまだある。でもいそがなければ。
 2012年(平成24年)5月21日(月) 大人の流儀  伊集院 静
この本に夏目雅子さんの夫としての記述があると言うことを知り買い求めました。「妻と死別した日のこと」「愛する人との別れ〜妻・夏目雅子と暮らした日々」響くところが多かった。作家だけあってなかなか言葉で表せない思いがつづられている。
 「親しい方を亡くされて戸惑っている方は多いでしょう。私の経験では,時間が解決してくれます。だから生き続ける。そうすれば亡くなった人の笑顔を見るときが必ずきます。最後に,数年前に観た映画でのチェチェンの老婆のせりふを紹介します。「あなたはまだ若いから知らないでしょうが,哀しみにも終わりがあるのよ。」」
 2012年5月5日(土)たまたまテレビを見たら「邦画を彩った女優・選 夏目雅子 笑顔と執念」
という番組に見いってしまいした。早くして亡くなられた美しい女優さんくらいの知識でした。生年月日を見ると昭和32年とありました。裕子さんより1年若い同世代の人でした。親しみを感じました。27歳白血病。壮絶な最期とあります。そして女優として「魂を売る仕事」に没頭したドキュメントでした。その仕事ぶりと女優としの精進に目を見張りました。このように注目される立場にあって活躍し将来を期待されていた人。どれだけ無念な気持ちだっただろう。 
 2012年5月4日(金) 父母そして妻の死と向き合って自分の死を毎日のように意識して生活するようになりました。毎日のように報じられる理不尽な死。すぐ年齢に目がいきます。そして自分の死はいつ来るのだろう。人間としての死。人という生き物としての死があるように思います。
 2011年6月20日 私の妻 裕子が亡くなった。
何と言うことだ!順番が違うだろう! もういつ死がきてもよい状態を作らなければ。裕子さんと約束したことをやらなければ。心のバランスを保とうとするがつらい。
 2004年1月9日母が亡くなった。父が亡くなり,その悲しみも消えぬうちに後を追うように亡くなった。こどものため,夫のため,孫のため誠心誠意働いた母でした。これからやっと自分のためだけの人生を願っていたのに。
 2003年9月28日(日) 昨年の9/26日 父が亡くなった。
 あの日から1年。毎日生活をともにしてまた会えると信じ「それじゃ行ってくるね」と握手をして通勤するのを常としていた私にとってその存在の喪失は限りなくむなしく寂しい想いにおそわれた1年であった。 そして次は自分という意識が強まり死というものが近づいてきた。


 天国の裕子(裕子さん,裕子ちゃん,母ちゃん)へ
この場が裕子へお話しする
にはよい場所かもしれません
ホームページは世界中から見ることができます
ひょっとしたら旅行が大好きだった裕子がどこかで見ているかもしれないと思うだけで
すこし気が楽になります。
これからときどき,お話しにきます(2011年12月31日)
2024年3月28日(木)
裕子さん
12年と9ヶ月が過ぎました。 
ほんとに忙しい毎日が続いています
今日も野外で歌を歌ってきました
裕子さんは
知らない取手駅西口からすぐの所に
ウエルネスプラザという施設ができた
そこでイハラさんと
ギターと歌を歌うのね
誰にも知らさないで
お客さんは
たまたま
そこに立ち寄った人
自分を元気なさせてくれる
音楽活動です
裕子さんの絵も
引き続き展示しています
落ち着くね裕子さんの絵を見ると

ミーも産休も3月で終わり
いよいよ
職場復帰です
Sanaも
元気に成長しています
手を広げて
ぼくの胸に飛び込んでくる
可愛いいね
がんばります
それでは
 2024年2月29日(木)
裕子さん
12年と8ヶ月が「過ぎました。
今日Sanaが来ました
20日で1年3ヶ月になりました
ますます知恵をつけているようです
5月4日に多くのお客さんが来るので
部屋を整えています
ミーと裕子さんの額縁の絵を
飾るのを手伝ったもらいました
いい絵を残してくれたね
もし今も書き続けていたら
きっと個人の画展を企画できただろうね
そういうことを考えると
残念でなりません
書道もプロ並み
絵も素晴らしい
ぼくの誇りでもあった
あの八ヶ岳で
赤岳を
描いている
裕子さんの周りを
ぐるぐるランニングしていたときが
ぼくにとって最高に幸せなときでした
明日から3月
久しぶり
沖縄・与那国島
への短期の旅に出ます
また来るよ

 
 2024年1月31日(日)
裕子さん
やっとここに来ることができた
年も明けたと思ったらもう1ヶ月が過ぎました
あれから
12年と7ヶ月が過ぎました
今また大きなことに挑戦しています
誰にも言っていないんだよ
裕子さんにだけは告白しようかなと
思ったけれど
驚いてもらうために
黙っておくね
楽しみにしておいてね

Sanaがますます可愛くなってきたよ
ぼくのピアノ
歌とギターに合わせて
からだを思い切り動かすのね
それがチャンとリズムに合っている
ピアノも鍵盤を弾こうとする
ピアノの先生がおじいちゃんの弾くのを
見ているから
そのようにできる
そうでないと
鍵盤をたたくだけになる
と言ってくれた
うれしいね
Sanaのために少しはなっているのかと考えると
親バカ
でなく爺さんバカ
かね
きっといろんな可能性を秘めた
子どもだと思う
健やかに成長してほしいと願うばかりだ
そちらからも
応援してね
まだたくさん話あるけど
また来るね
2023年12月31日(日)
裕子さん
12月20日12年と6ヶ月が過ぎてしまいました
そして今日は2023年の最後の日
慌ただしく過ぎようとしています
なんとか
10kmのマラソン大会に出場し
最終ランナーでゴール
できているけれど
これをいつまで続けられるか自信がないね
とにかく78歳にフルマラソン
を完走するという
大目標に向け
がんばっているよ
Sanaがますます可愛くなってきた
我が家に来て元気いっぱい動き回ってる
恐れを知らない動きに
ひとときも目を離せないね
でもピアノ、ギターの音をだすと
動きを止めてそれに合わせて
からだを動かす
見ているだけで楽しいよ
昨日本屋の絵本のコーナーにいって
適当な絵本を買った
「なぜねるの」イモトヨウコ
この世界のこと知らないけれど
この方大変有名な絵本作家だった
年齢が79歳
読後ほんわかした優しい気持ちになるね
Sanaのおかげで
楽しみが増えた感じだ
Sanaに読んであげて
どんな顔、反応するか楽しみだ
まだアーとかウーとか発しないけれどね
「お母さん、このときどうしていたのかな」
と聞かれるけど
ぼくはこたえられないね
裕子さんが生きていたらなぁと思うよ
とにかく
来年
2024年がいい年であることを願う
13日楽走会の七福神巡り
あんまり拝んだりすること
習慣にないが
神頼みではないけれど
気休めに
手を合わせてみるかな
そちらでもよいお年を
来年も見守っていてね
 
 2023年12月02日(土) 
裕子さん
11月20日で
12年と5ヶ月が過ぎました
大幅に遅れて12月を過ぎての書き込みです
こちらは元気だけれど
気が滅入ってしまうようなことが
世界で起きているよ
毎日のように
戦争で子どもが殺され
多くの人が殺され
その悲しみの叫び声が世界に響いているのに
戦争を止めることができない
異常なことが日常のようになっている
気が狂った戦争で
原子爆弾の使用もできる国が狂うかもしれない
そんな恐怖を感じます
与えられた人生
を平和に全うできたらとおもうよ

そちらは平和そのものかな

毎日忙しいのが何よりかと思っています
ただ身体の変化は刻々としているようだね
毎日腕立てふせとか筋トレ
をしているけど
それ自体もきつくなってきたね

相変わらずラン&ウォークは続けている
けど
最近10kmマラソン完走できたことはうれしいけれど
いつもは走り抜けてのゴールは
今回はゴールまでランニングフォームを
維持するので必死
そしてゴールとともに
バランスを
崩し転倒
救急搬送されるかと思ったけど
自力で回復できた

こんな状態だったんだよ
2019年3月24日にランニングストップ
それからもうすぐ5年
当時は100mも歩くのがきつかったのが
10kmも走ることができるようになった
その回復はうれしいけれど
まだまだ今の自分に合った
ラン&ウォーク
はできていないよ

Sana
が11月20日1歳の誕生日
元気に育っているよ

それでは
また
 2023年10月27日(金)
裕子さん
12年と4ヶ月が過ぎました
地上は今大変な事になっているよ
毎日のニュースが暗い
ウクライナに続いてパレスチナ
中東で戦火が始まった
毎日子ども、女性など一般市民の
多数の死が報じられている
絶望してしまうのは国連がそれを止められない
大国の思惑それをにらみながらの各国の動き
相変わらず情けないのは日本の政府だ
日本国憲法を振りかざし
戦争を止める独自の動きができない

まぁこんな毎日だよ
日本は平和だけれど
それが少しずつ崩されているようだ

地上からのグチ
そちらはどうですか
ミーのファミリーがまだ9ヶ月のSanaを連れて
沖縄に行ってきたよ
懐かしいね
裕子さんとの
沖縄でのおもいではたくさんあるね

座間味にもいったみたいよ

また来るね

 2023年09月29日(金)
裕子さん
20日で12年と3ヶ月が経過しました。
Sanaも10ヶ月
ますます活発にアーとか言葉にならない
音を発しながら
見るものにさわり
口にくわえます
これも脳を発達させる活動らしいですが
周りの大人が気をつけてやらないと
安全を保てない
自分たちの子育てのとき
ゆとりもなく子どもの動きをじっくり見ることができなかった
けれどみなこのようにして
人間らしく育てられていくのだと
自分の生後10ヶ月のころの
父、母の大変さを想像しながらSanaを見ています

相変わらず忙しくて
ここにやっとこれました
もう9月もおしまい
速い速いときのながれ
この調子だと
裕子さんに再開する日も
近いね
とにかく地球の人間世界は
大変な事になっています
見守っていてね
それでは!!
 2023年08月24日(木)
裕子さん
20日で12年と2ヶ月が経過しました
Sanaも9ヶ月
もうすぐ歩き出すのではと思える
活発な動きができるようになってきました
なにも教えていないのに
ハイハイから2本の足で立ち歩こうとするんだね
一緒の見守りたかったけどね
子育て中の親の立場と違って
一人の人間が成長する過程をSanaが見せてくれています
楽しみです

暑い夏

 2023年07月28日(金)
裕子さん
ご無沙汰してしまいました!
いまここに来て
あれーぇ5月、6月に書いていないことに
気がつきました
ボケていないからね
この6月で12年だから忘れるはずないのに
と振り返ると
言い訳になるけれど
忙しいだけでなく
必死に取り組むことがあって
生活をすべてそこに集中していたことを思い出しています
5月17日〜6月17日
ヨーロッパ縦断旅行から帰国し7月16日開催の
ピアノコンサートへ向けて
の練習を始めました
1ヶ月間ピアノから遠ざかり
思い出しながらの練習
曲は「エリーゼのために」の全曲
先生からこれだと一部カットしないと間に合わない
といはれながら
励まされて
なんとか発表にこぎつけたよ
ゆーもみーも
孫のSanaちゃんも来てくれた
うれしかった!

2023年04月23日(日)
裕子さん
4月20日
11年と10ヶ月が過ぎました
そして新しい生命Sanaは
5ヶ月を過ぎました
ますます可愛いくなっています
裕子さんに抱いてもらいたいね

ぼくは元気ですが
まだ以前のようなシャキッとした動きが
できないでいます
それに慣れていくしまないかな
と思っています

しかしね
コロナが少し収まり
コロナ禍以前の状態に世界が少しずつ
戻りつつあるんだよ
でもまだコロナはうごめいていて
油断はできないけれども
自分のやりたいことが
コロナのために
どれだけ阻まれてきたのかを考えると
その分を取り返すつもりで
行動開始だよ
5月大旅行を計画しています
今回も
新しいことに
挑戦するからね
今からおもしろい旅になりそうだ
とウキウキしているよ
そちらから
見ていてね
それでは!
また。 
2023年03月27日(月)
裕子さん
3月20日
11年と9ヶ月が過ぎました
そして新しい生命は4ヶ月を過ぎ
1日ごとに成長しているようです
あのミーが一日一日母親らしくなってきました
神社での
お祝い事も無事に済まし
この子の健康と成長を願いました
大きな神社で
いろんな神事が行われていました
いろんな心配事
人の力ではどうにもならないこと
不安な世相にあって
神様、仏様に拝んで気持ちを落ち着かせることも
これから生きていく上で
必要かなと思っています
でも
仏壇、お墓
裕子さんのいるところ
に手を合わせることが
一番落ち着くね
昨日
大雨の中
お墓参りをしました
ユーも駆けつけてくれました
また来るね
 
2023年02月26日(日)
裕子さん
2月20日
11年と8ヶ月が過ぎました
そして新しい生命は3ヶ月を過ぎ
ますますヒトの子になってきました
笑顔を見せてくれるんだよ
アーとかウーとか
なにか現したいのだろうね
もうすぐ3月
お雛祭りだね
裕子さんのお母さんから
頂いた
ひな人形を屋根裏から出して
ミーの家に届けたよ
7段のひな人形が
何年ぶりかな、飾られている
喜ばれているよ
裕子さんと子どもがひな人形を飾っている
姿が思い出される

2月24日ロシアがウクライナ侵略して
1年が経ちました
多くの人が死んでいます
兵隊3000名投入とか
ニュースで流れます
戦争を指揮している者にとって
人の命は数でしかないのだね
一人一人に名前があり
家族がいる

戦争をストップさせるには
皆が武器を捨てればよい
相手が脅威だからそれを守る武器を用意する
そしてまた戦争が始まる
戦争はもうコリゴリ
と世界で一番感じた国は日本のはず
もう武器を持たないと世界に宣言した
日本国憲法をもっている
今こそ出番なのに
日本の政府は情けない動きをしている
ごめんごめん
話しは止まらないね
こんな話しも
するからね
それでは
また!

 
2023年01月23日(月)
裕子さん  
1月20日
11年と7ヶ月が過ぎました
そしてサナちゃんが生まれて2ヶ月が経ちました
なかなか会いに行けなくて
直接見ることはできないけれども
あの頃はなかった
LINEという通信ツールで
大量の写真が送られてくるんだよ
だからいつも会っている気分
でも次の再会でどれだけ成長したのか
どのくらい重くなったのか
抱くのが楽しみだ
天国にLINEが繋がるといいんだけどね(笑)

国立科学博物館でのボランティアも始まった。楽走会のイベントも
入ってきた、ピアノの練習、バンドの練習
と毎日目一杯
今日は起きるのが9時
と早起きできなくなってきた
今週日曜日
国立競技場での開催
新宿シティーマラソンに参加するよ
やっと5kmを完走できるようになったから
10kmへの挑戦だよ
見ていてね!
2022年12月30日(土)
裕子さん 
12月20日
11年と6ヶ月が過ぎました
11月26日に
赤ん坊と初対面したよ
しっかりした顔立ちで
つやつやのホッペ
可愛い手
ミーが誕生以来になるね赤ん坊を抱くのは
この子の人生が
平和な世の中の中で
イキイキとしたものになることを
願うよ

一緒にいる父、母にも知らせてね
あの小さかったミーが
母親になった
なにか力が湧いてくるような
気持ちになっているよ
一緒に
喜びたかったけれどね

とにかく忙しく
年越しになりそうだ
また来るね!
2022年11月21日(月)
裕子さん
11月20日
11年と5ヶ月が過ぎました 
ときは飛ぶように過ぎていく
今日は
大きなお知らせです
ミーが初出産 女児が誕生しました
母子とも元気ということだけれど
面会は当分できません
ここでもコロナが邪魔をします
新しい生命の安全のために我慢します

裕子さんも微弱陣痛とかいって
大変な出産だったね
そのようにして
生まれた子どもに
子どもが生まれた
二人で手をとりあった喜びたいところだね
ミーの主人ケンさんから
LINEで知らせてもらった
いまかいまかと待っている姉、弟
にすぐ電話した
なぜか涙があふれてきた
命の
つながりを感じた
瞬間だった

裕子さんの月命日に
新しい生命が誕生した
11月20日(日曜日)
11時51分
3,153g

この日僕はミー頑張れの
マラソン大会5kmを完走した

また来るね
2022年10月24日(月)
裕子さん
10月20日
11年と4ヶ月が過ぎました
寒くなってきた
コロナも少し収まりコロナ前に
戻りつつあるよ
しかし大変な物価高騰などで
生活は楽にはならない
相変わらず悪政が続いているよ

書籍の出版という
人生一大事のことなんだね
皆さんから
おめでとうコールを頂いている
裕子さんとお別れして
どうしようもない自分が
何とか一人暮らしができるように
なった

生きること死ぬこと
を真正面から
考える
きっかけが
悲しいかな裕子さんの死だった
必ず100%人は死ぬ
この当たり前のこと

我が身として
理解すること
理解しようとすること

そんな
きっかけになればと思っているよ

幸いにも
読んで下さったから
うれしい感想を頂いている
また来るね
 
2022年9月24日(日)
裕子さん
9月20日
11年と3ヶ月が過ぎました
そして21日は生誕66年でしたね。

どんどんときは過ぎていく
今日は裕子さんに
報告です
僕が執筆した書籍が9月16日出版されました
「62歳、旅に出る!」
覚悟の海外一人渡航日記

裕子さんが亡くなって
どうしようもなくなって
お世話になったご住職の元へ相談に行きました
そこから始まっています
ご住職の
「旅に出なさい!」の後押しを受け
始まった旅です

書籍の最後に
「この度の出発点は妻の死だった。
一緒に旅をしたかったという思いは続いている。二人分を
一人で頑張れたかなと妻へ報告したい。
旅の報告を楽しみに一人旅へ優しく背中を
押して頂いたご住職に
心からの感謝を捧げたい。」

と結んだ。

振り返ってみると裕子さんがご住職に相談しなさい
といってくれたように思います


一緒に旅したような気持ちで書き記せたことが
うれしい!

また来るよ 
2022年8月21日(日)
裕子さん
8月20日
11年と2ヶ月が過ぎました。
そちらは穏やかですか
毎晩一人芝居をやっています
寝るときを死と見立てて
地球へのお別れの挨拶のあと
それではさようなら
と睡眠に入ります
天国で待っててくれている人がいる

滑稽だけれどおもしろいんだよ
独りごとがおもしろい
いいたいこといっているよ
ときにはふざけるな
と思う人を
呼び出すんだ
安部元首相は何度も呼び出し
ふざけるなと
怒って見せたものです

その後も次々と悪いニュースが後を絶たない
皆元気でいるよ

また来るね!
 
2022年7月20日(水)
裕子さん 
6月20日
11年経過
のとき
オーストリア・ザルツブルクにいました
コロナ禍での海外旅行は
やはり甘くはなかった
無事に帰国できてよかった
お墓に報告に行きました
聞こえましたか
そして
あれからあっという間に1ヶ月
11年と1ヶ月が経過しました
この世は大変な事になっています
またコロナが増え始め
日本では
あの安部首相が
銃撃され亡くなるという事件が7月8日に起きたんだよ
そして今国葬を9月27日にやると発表があった
裕子さん
おかしいよね!人の死を悼む事は当然だけれども
税金を使っての葬儀
すでにそれに反対の意思表示が
政党、団体、個人から上がっているよ
ほんと
不愉快おかしな事がまかり通る
日本!何とかしなければ!

明るい話し
お爺ちゃんお婆ちゃんになれるかもしれないよ
その報告はあとでね

また来るよ
2022年5月30日(火)
裕子さん
10年と11ヶ月が過ぎました。
ギリギリ
来れました
楽しいことを計画しているよ
裕子さんが好きだった
ヨーロッパへの旅を計画している
コロナはまだ収まらないけれど
それへのワクチンがつくられて
それを打てばコロナへの感染を少し予防できるという
高齢者は優先的で
僕も3回打ったよ
4回目の接種も始まるそうだけれど
以前より
コロナに対して無防備でなくなったこと
コロナの感染の仕組みが
研究者により明らかにされてきた
しかしまだ人類は安心できない状況だよ
まぁとにかく久しぶりの
海外旅行の準備をしているよ
懐かしいね
あのスイス旅行で
僕のバカでかいスーツケースをみて
笑っていた裕子さんを
思い出しているよ
今は旅慣れたから
あれほどでないけれど
大変だ!


また来るよ 
2022年4月25日(月)
裕子さん
10年と10ヶ月が過ぎました。
ほんとに
ときの流れが速い
もう4月もおしまい
一つ年を重ねる5月がもうすぐだ
マラソン大会に参加してきたよ
足の回復はまだまだだけれど
5kmを制限時間で走ることができること
はうれしい
今回の大会はスタッフがみんな青年で
高齢者のスタッフが中心という大会と違って
なんか生き生きしていたよ

参加者も若くて
高齢者はほとんどいなかった
若者の応援があると
つい頑張ってしまう
幸い走った後イテテがないから
次を目指すよ

前回知らせたように
地球の人間世界は大変な事になっている
他国への侵略が公然とやられ
侵略された国の人々の
人生がすべて狂わせられた
昨年の東京オリンピックで
活躍した
ウクライナの選手が
国を守るために軍隊に参加し
銃を手にしたという
ホントに
平和あっての
スポーツ、音楽
そして日常生活
毎日戦場の報道を見ながら感じることだよ
そちらは
きっと平穏だと思うけれどね

また来るね
 
2022年3月30日(水)
裕子さん
10年と9ヶ月が過ぎました
今日は30日
20日だね裕子さんの日は
とにかく毎日やることがたくさんあって
ついついここに来るのが遅れてしまう
また3月が過ぎようとしています。世の中の喧騒にお構いなくサクラが満開です。
サクラと入院・看病つらい想いが連想されて素直にサクラサクラと言えなかった。
サクラにはなんの罪もないのにね。
考えようによっては
人間世界にどんなことが起きようが変わらずにいつものように
咲く同じ生きもの植物を見ることによって
励まされることもあるんだね。
そんな風に考えられるようになりました。

ほんとに世界は大変なんだよ。
コロナとの戦争も終結していないのに
人間どうしの戦争が始まり多くの人の命が失われています。
毎日両方の戦争で死んだ人の数が報じられて憂鬱な気持ちになる。

ちょっと明るい話しするね。
昨日撮影会をやったんだよ!何のため? 自分の走る姿を撮ってもらった。
プロのカメラマンだよ。
52歳から走り始め裕子さんも応援してくれた
ランニングが今も続いて20年になる。
少し足を痛めて元気なときのようには走れないけれど
短距離でも格好よく走る姿を、記録しておきたいと思ったんだ。
場所は国立競技場周辺。楽しかったよ。
「いい笑顔ですね」
と褒められました

それができたらまた知らせるね。
みんな元気だよ。
またね! 
  2022年2月28日(月)
裕子さん
10年と8ヶ月が過ぎました
ギリギリセーフ
明日から3月
はやいはやい!
ときの流れ
裕子さんそちらはどうですか
こちら地球は大変なことになっています
コロナコロナの犠牲者が毎日のように
報道され一向に収束する見通しがない
それに加えて24日ロシアがウクライナに
軍事攻撃をかけ始めた
全く平和な日常生活の中に
弾丸を撃ち込むんだよ
プーチンは背広にネクタイをして
一番安心な場所から戦闘を指示している
核兵器の使用までちらつかせている
狂気だ!
というわけで
日本の我が家は平和だけれど
毎日理不尽なことで命を奪われている
人の数が発表されて憂鬱になるよ
家の前は家の建築の音が響き渡っている
ものをつくる音はいいよね
ものと人を破壊する
戦争は許せないね

明日から
あの3月が始まる

あまりいい話ができなかったね
コロナ弾から身を守りながら
みな
頑張っているよ

また来るね
 2022年1月27日(金)
裕子さん
10年と7ヶ月が過ぎました
いつも気にしながら
ここに来るのが遅れます
それだけやらねばならないことが多いということで
安心してね

新年気分も消え去り
日常生活が続いています
我が家から見える筑波山が見えなくなるかもしれない
田んぼが跡形もなく宅地へと変わってしまった
毎日のように
その建設のための
カナ音が寒い空気を震わせている

目の前にがっちりした素敵な
集合住宅の建物の全容が
現れた
建築のために覆われていた
カバーが外されたのね
ホントに凄いよね
こんなにきれいな建物ができるんだ
感心してしまう

まぁとにかく環境ががらっと変わりそうだ
先日我が家に来てくれた
仲間があまりの変わりように
なかなか我が家を見つけられなかったといっていたよ
裕子さんももし帰ってくるときは
知らせてね
迎えに行くよ
そんな日が実現すると
いいなぁ!

それでは
またくるよ!!
 2021年12月25日(金)
裕子さん
10年と6ヶ月がすぐ去りました
ほとに時がビュンビュンと流れていく感じ
再会の日もどんどん近づいているよ
1日1日できるだけ楽しくするようにしている

今週はピアノの発表会で弾いたんだよ
人の能力というか
子ども達のようにはいかないけれども
練習すれば「できる!」ようになるんだね
80歳以上の方が「エリーゼのために」
を演奏したんだよ

僕はミュゼットという曲
あっという間に終わるけれど結構難しい
途中間違えたけれど
何とか最後まで弾けた


転倒後の傷も完全回復して
少しずつ走れるようになってきた
まだまだ頑張れそうだ

それでは
よいお年を!
でいいかな 
 2021年11月30日(火)
裕子さん
ふーっ!やっとここまできた
やることがたくさん!
10年と5ヶ月があっという間に過ぎ去った
今日は一番の冷え込みで
寒さは気持ちまで
ちじこませるね
今日は久しぶりに科博に行ったのね
とにかく家に出るまでが
大変だ
そして必ず忘れ物をして戻る

科博ではトイレにタブレットを忘れ
仲間と飲食中に気がついた
幸いにも落とし物として
届けられたとの
連絡で
ホッとしたところだよ
そうそう
ウォークラン中に
転倒して
救急車で運ばれた
まだ痛いところはあるけど
回復したよ
こんな感じで毎日生きています

我が家の前の田んぼに
大きな集合住宅の建設が進んでいるよ
二階から見えていたものが見えなくなってしまった
 近くに
大きな老人施設が建築中
裕子さんもびっくりするような
環境の変化だ
蛙の声が聞こえなくなった
寂しいね

それではまた!
 2021年10月25日(月)
裕子さん
10年と4ヶ月
が過ぎました
今ね衆議院選挙の真っ最中
今度の選挙は
ちょっと今までと違う
なんと共産党を含む野党がひとかたまりに
なったんだよ
小選挙区
で自民党圧勝ということでウンザリしていたけど
いろんなところで激戦
自民党公明党は全然違う者同士が野合している
といい特に共産党への攻撃を強めているよ
20項目に渡る政策合意
すぐにでも実現して欲しいものばかり
水と油の体質の
自民党と公明党こそ
大臣になりたいための野合なのにね
コロナ禍で毎日毎日
政治の劣悪さを見せつけられ
政治の土台が目の前で壊されていくのを見て
とにかく政治の土台(土俵)をつくりなおそう
と立ち上がったんだよ
とにかく
生きることが容易でない社会
をみんなが安心して住める社会へ
僕も少しは頑張る
見ていてね!
2021年09月30日(木)
裕子さん
ちょっと遅れました
10年と3ヶ月が過ぎました
ホントに時が経つのがはやく感じられます
そちらに行くのも
もうすぐだね

相変わらずコロナウイルス感染の危機
は収束していません
はっきり原因がわからず
現在感染の数が減り
緊急事態宣言が本日で
解除されます

しかし次の第6波への備えとか
十分な対応が
心配な状況です

みな元気にしています
リホームしての
片付けもまだ細かいところでは出来ていません
大量の写真の整理も
まだまだ
写真の整理がなかなか進まないのも
みんなで見るためという目標がないからね
後回しになってしまう
時間の許す限り
ことこつとやることにするよ
それでは!また!
 
 2021年08月24日(火)
裕子さん
10年と2ヶ月が過ぎました
今日は悲しいお知らせです
7月22日ご住職が亡くなられました
100歳
でした。
裕子さんのお父さんお母さん
僕の父,母
そして
裕子さん
がお世話になったご住職でした
裕子さんが亡くなったあと
相談に行くことがありました
一休さんのようないでたちで
可愛かった(失礼)
新聞読み,読書をして
いつもしっかりと
私たちにお話してくれました
ホントに残念です

でもご住職も
そちらに
いって
みんなにご挨拶するかもね
「久しぶりだね裕子さん」
と言って
僕の話をしてくれるかもしれないね
コロナがおさまったら
一般の告別式を計画するそうです
必ずいくつもりです
それでは
今日はこれくらい
またね
2021年07月31日(土)
裕子さん
どうしてるかな
10年1ヶ月が過ぎました
コロナもおさまらず
それへの対策としてワクチン接種が進んでいるんだよ
僕は昨日2回目の接種を
近くの病院でやってもらった
感染が広がり
日常生活の
楽しい事が制約されています
子供達が可愛そう!
若い人への感染が多くなり
子供へも
広がっています
幸いにも
ゆきさとみも元気!
僕の回りの人は元気だけれど
油断できない状況なんだよ
1日1日と生きていくことが大変な世の中になってきた
頑張って
生くよ
またね!!
  
2021年06月27日(日) 
裕子さん
20日みんなでお墓にいったよ
聞こえたかな
あれからもう1週間過ぎてしまった
まだはっきりと
10年前を思い出すことができる

あと10年後はどうなっているのだろう
と考えると
ひょっとしたら
会える日が来るかもしれない
そんな時の流れを
感じます
やりたいことがたくさんあったのに
無念のおもいで
人生を
終える人が多いよね
裕子さんもその一人だ
だから無念なおもいを
できるだけ
小さくして
人生の
ゴールを
駆け抜けたいね
この10年常に僕の心に生きていた
これからも
みんなを見守っていてね
あ!そうだ
明日28日から新しい生活が
始まるよ
あの6人で暮らしていた家の
リホームが完了し
新しい「ふるさと」
に戻るよ
頑張る!!!
2021年06月19日(土)
裕子さん
明日で裕子さんとお別れして10年になります。
不思議なもので5年10年とキリのいいい
数字は人間の生活の中で
一つのけじめになるようだね。
今日1日は10年を振り返りたい
そしてうれしいことに
ゆき,さとみと久しぶりに
会うんだよ
裕子さんがいなくなってから
3人のミーティングが
僕にとって活力の元だった
しかし
二人とも
結婚するとなかなか3人のミーティングができない
当たり前で
結婚すれば自分たちの
家庭を築くのに必死
仕事も大変
自然と
遠ざかっていく
子離れしなくてはならないんだよね
夫婦でいれば
3人のミーティングは必要なかった
でも娘達に感謝しているよ
話を聞いてくれて

1週間前に
楽走会の練習会
そのユニホームのまま
花も線香ももたずにお墓にいったよ
周りを掃除するだけで落ち着くね
お墓はこんなかたちで
気軽に訪れてもいいんだよね
幼い頃はお墓といえば
怖い場所だった
今は心安まる清らかな場所に思える

明日は
みんなで裕子さんの好きな花を持っていくからね
楽しみにしていて!
 
2021年05月26日(水) 
裕子さん
9年と11ヶ月がすぎました。
そちらはどうですか
静かな世界を想像しています.。
2021年04月29日(木)
裕子さん
9年と10ヶ月が過ぎました
だいぶここに来るのが遅れました
なんと我が家を引っ越しし
今,あのカスミストアーの近くにいるんだよ
引っ越しといっても
3ヶ月くらいの仮住まいです
いろいろ考えました
高齢者の人生のゴールについて
週刊誌などでも話題になっています
シニアの介護付き住宅とか
選択肢はいろいろあるようだが
あの大きな家で
ゴールを迎える
と決めたんだ
そこから
大きな動きとなりました
考えてみれば退職以来
自分のモノ,裕子さんのモノ,子供のモノ
はそのままだった
いつかはやらねばと
思っていた
断捨離
この家をあと10年は気持ちよく住めるように
したい

相変わらず
コロナ感染がおさまらず
毎日のように
世界中で
多くの人が亡くなっています
こんなとき
東京オリンピックをやろうといっている
政府
呆れてしまうよ
見ていてね
また来ます
 
2021年03月23日(火)
裕子さん
9年と9ヶ月が過ぎました
コロナがまだおさまっていない!
21日に緊急事態宣言が解除されたのに
新規感染が増えているんだよ
そちらではあまりピンとこないと思うけれど
オリンピック観戦のための
海外のお客さんを受け入れないことが決定されたり
世界が大変なことになっている
「おうち時間」なんていう言葉が頻繁に使われ
おうちで過ごす時間が
多くなっている
楽器を習い始めたり
絵を描いたりする時間をもつことができる
ということ
裕子さんなら
絵を描いて習字をしてと
きっと退屈しなかっただろうね
引っ越しの準備?
しているよ
見ていてね
びっくりするよ

また来るね 
 2021年02月22日(月)
裕子さん
9年と8ヶ月が過ぎました。
コロナはまだおさまりません
しかしワクチンの接種が始まりました
人類はすごいよね
コロナ対策の薬を開発して
世界中にそれを輸送し
一人一人に注射で打つ
−70℃以下で保存するデカイ容器
がテレビで映し出された

毎日のように死者の数が報告されています
コロナに感染しないように
病で倒れないように
自己管理
をしているよ

毎日我が家の前の
工事が進んでいます
もうあの田んぼの光景も跡形もなくなりました
裕子さんが見たら驚き
嘆くだろうな
きれいな分譲地ができるようだよ
どういうわけか
小さな遊園地だけは完成
我が家から50mくらいのところ
誰もいない朝に
ブランコにのっている

我が家のピンクの大輪
サザンカが
今年も
きれいに咲いている

また来るね
2021年01月22日(金)
裕子さん
9年と7ヶ月が過ぎました
2011年3月11日東日本大震災
から10年が経つ

いつもだとこの時期からこの震災
を振り返るニュースが流れ
そして
6月20日を迎える
コロナのニュースであふれ震災のかげが薄くなっている
けれど忘れはしない

あのときの場面を昨日のように思い出すよ

5:30起床
現役の時のような時程だけれど
仕事でなく
ウォーキング
まだ暗い道路
始発のバスと同じ場所で
すれ違うよ

車通勤の頃を思い出しています。

また来るよ
 
2020年12月22日(火)
裕子さん
9年と6ヶ月が過ぎました
決断しました
人生をこの家で終わる
そのためのリホームを考えています
自分の今までの荷物
子供たちのもの 裕子さんのもの
を整理するチャンスにしようかな
と思っています
なかなか踏ん切りがつかない
6人住んでいたスペースがあるからこのままでも
不自由しない
でも気持ちの切り替えをするために
やることにしました

コロナ,コロナ
まだまだ
続きそうです
コロナとの戦争で「戦死」しないように
緊張した毎日が
世界中で続いています
幸い
みんな元気だよ

ユー,ミー二人が結婚して
の年末,正月は初めてです
いつも3人で餃子を食べて年越し
それができないんだね
当たり前だけれど
友人に言われました
「娘さんに寂しいと言ったらダメよ」
結婚したら
当たり前のことだと
,,,,,,,,,。
また来るね

 
2020年11月23日(月)
裕子さん
9年と5ヶ月が過ぎました
一人暮らしの皆様へ(歳末助け合い事業)
と題したチラシがポストに
新年のカレンダーがプレゼントとして届けられたよ
一人暮らしももうすぐ10年になる
少しずつ,体の変化を感じているけれど
なんとか不自由せずに
暮らせていることがありがたい
この家に移り住んで31年が経過しました
屋根も相当老朽化しています
外壁も手でこすると白い物がつく
まだまだこの家に住むために
どうしようか
考えています
見ていてね!
 
2020年10月20日(火)
裕子さん
9年と4ヶ月が過ぎました
お元気ですかというとおかしいか(笑)
世界がおかしい!
上に立つ者,国の頂点に立つ者
がおかしい!
日本,アメリカ,中国,北朝鮮,,,,
えっそんなこと言っていいの

そちらからも聞こえるでしょ
酷いよ
コロナ禍がどのように収まるかの見通しもない
残り少ない時間で計画していたことが
できない

人生の最期を見通して
大きなことを計画しています
そちらからも見えると思うよ
楽しみにしていて

元気だけど
土曜日の練習会で転んでしまった
おかしな転び方
幸いにも
普通の生活
ができる状態

明るい話にならなかった

また来るよ
 
 2020年9月21日(日)
裕子さん
9年と3ヶ月が過ぎました
そして今日は裕子さん生誕64年になるね
昨日はお墓参りにユー夫婦ミー夫婦が
いきました。驚いたでしょう。
二人とも優しい人と巡り会えて
ほんとによかった!
これからの幸せを心から祈ります
そちらからも見守ってね
母ちゃんと会わせたかったよ

相変わらずコロナ感染が広がっています
暑さも和らぎ
秋の気配が少しずつ
濃くなっています
僕の体調は
ランニングをストップしてから
もうすぐ1年と6ヶ月が経ちます
あれほど夢中に
生活の中心にあったランニング
がなくなり
精神的にも
スカッとした気持ちよさがなくなった
それに代わるモノ
を模索中です

日常生活で不自由はないけれど
今までのような
キビキビした動きでなくなってきました
我慢できるけど
痛さを常に感じている

今日は
弟とお墓にいくから
またね
 2020年8月23日(土)
裕子さん
9年2ヶ月が過ぎました
今までにない猛暑の夏の真っ只中、今日は朝から曇りで時々
大雨が降っている
少し涼しさを感じホッとするね
そちらはどうですか

インフルエンザは冬場に流行し
気温が上昇すると消えていく
しかしCOVID19(新型コロナウイルス感染症)は
消えるどころかまだ世界で感染を広げているんだよ
日本も東京を中心に
勢いが増している
東京で働いているミー
介護現場のユーが心配だけれど
元気でいます

近所の様子は
家に前の田んぼはなくなり
造成工事がいよいよ本格的
水道、下水道、道路
の工事に入っているようだよ
2階の和室から見えた
景色がよかったよね
田んぼの緑はかけがえのないものだった
残念だけれども
今住んでいる家も元田んぼ
このようにして
人が住めるようになるんだね
なんともいえないね
裕子さんが
見たらどう思うかな
絵を描きたくならないかも
しれない

それではまた


 
 2020年7月26日(日)
裕子さん
9年1ヶ月が過ぎました
だいぶ遅くなりました
パソコンのトラブルで新しいパソコンを購入そして
使えるようにするための
セティング、データーの復旧と
結構大変だったんだ
コンセントに差し込めばすぐ使えるようになる
家電とは違う。

裕子さんもあまりパソコンには興味示さなかったよね
「私はアナログ」

書道は一流
絵もうまくて
うらやましい能力を持っていましたね
そういう人だから
そういっても
恰好よかった

今の日本、世界は「私パソコン使いません」
では生きていけないような
状態になっているんだよ
パソコンが出始めのころ
学校現場でも
私はパソコン苦手
と言ってすんだ時期があったよね
今はそれは通用しない

裕子さんなら
やる気を出せば何でもできるから
大丈夫
近くにかなり詳しい自分がいるからね

まだコロナ騒ぎが続いているよ
何とか感染しない
で生きています
皆元気だよ
また来るね
 
 2020年6月20日(土)
裕子さん
9年が過ぎました
一人でお墓に行きました
誰もいなくて
静かだった

まだコロナ騒ぎも続いていますが
移動することも少し緩和され
久しぶりに
三人が集まりました
ユーもミーも
所帯を持って初めて
話題もたくさん
母さんが喜ぶよ
二人とも頑張っています
いつも寝坊だったのが
朝5時に起きて食事の準備とか
信じられない生活の変化
やればできるんだね
それなりに
心配した
子ども達が
ここまで成長できた
親の役割も
終わった!
という安堵感と
少しの寂しさも
感じます
また1年後
6月20日に母さんにいい話ができるように
頑張ろう
と解散しました
それでは
また
2020年5月21日(木) 
裕子さん
8年と11ヶ月が過ぎました。
予定通りなら今頃スエーデンのストックホルムからの
発信が我が家からの発信です
7月22日開催予定だった東京オリンピックも
来年に延期
そして今日のニュースでは
来年できなかったらどうする
ということまで話されているよ

結婚式も延期され
外出も
自粛の規制でままならず
不自由な生活が続いています
でも
自宅でできる楽しみで
時間が過ぎていきます
 仏壇の前にも
ゆっくりと座り
今までよりも長い
時間をかけて,落ち着きます
活発な子ども,若者にとっては
大変だと思うね

幸いネットでの「旅行」

映画,読書,そしてピアノ,ギター
と結構忙しく
1日が過ぎていってるよ
そうそう
ランニングストップしてから
もうすぐ1年と2ヶ月
200mも歩くことがきつかった
当初と比べて
最近23kmも歩いても痛みを感じない
状態になっているよ
うれしいけれど
調子に乗らないで
ランニング
でなく
ウォーキング
でからだを調整していきます。

また走り出す日を目指して
頑張るから
見ていてね

また
2020年4月20日(月) 
裕子さん
8年と10ヶ月が過ぎました。
今までの人生のなかで
経験したことのない事態が止まらない
先月までは旅行の可能性はまだあるかと思っていたけど
今はとんでもない!
という雰囲気
家にこもっていることが求められているんだよ
国によっては
罰則まで科して強制している
それだけ
このウイルスへの危機感が
世界を覆っているよ
そんななか
我が家では
4月19日が大きな記念日になりました
ユーが結婚届けを出しました。
裕子さんのお友達も
喜んでくれました
そういえば
二人が小さいとき
裕子さんの職場で過ごしたことがあったね
そのときからユーを見てくれていた
人達です
仏壇に報告しましたよ
旦那さんそしてそのお母様も
ご挨拶にきてくれました
そちらの
裕子さんの
お母さんによろしく伝えて下さい
車で15分くらいのところに
住むことになった
二人を見守ってあげてね!
 2020年3月23日(月)
裕子さん
8年と9ヶ月が過ぎました。
そちらはどうですか
こちらの
世は大変です
この1ヶ月で
新型コロナウイルス(COVID19)が世界中に
感染を広げているんだよ
各国が渡航禁止
旅行者は15日間隔離とか
5月に予定している
ストックホルム
クロアチアへの旅が危なくなってきた

9年前の3月
思い出しています
3.11大震災の日のこと
病室で話したこと

今年は桜の満開が普通より早いみたいだけれど
コロナ騒ぎで
お花見も安心して
できない状況に
なっています
桜を見ると
裕子さんと過ごした
闘病の日々が思い出されます

また来るね
 
 2020年2月22日(土)
裕子さん
8年と8ヶ月が過ぎました。
今ね
世界で信じられないようなことが起きている
新型コロナウイルスによる感染が広がっているんだよ
毎日のように
感染した人の数と亡くなった方の数と
場所がニュースで流されている
そのために3月1日開催の東京マラソンが中止になった!
マスクが店頭から消えたんだよ。
とにかく何が起きるか分からない
この世です
何とかみな元気でいます
安心してね
それではまた
2020年1月30日(木)
裕子さん
8年と7ヶ月が過ぎました。
新年もあっという間に過ぎました
相変わらずランニングストップ
毎日右足の痛みを気にしながら一日が始まります
「走れる」ということは
バス,電車の出発時刻に走れば間に合う!
これができなくなると
ゆっくりとゆとりをもって
動かなければならない
スローな動きは
気持ちも
スローになっていくようです
まあ年齢相応の普通なことかもしれないけれど
やはり
いつまでも
キレのいい動きを保ちたいね

みな
元気で
がんばっているよ
とにかく
次の
ユーも
結婚式に向けて
一つ一つ
ハードルをクリアーしているようだよ
親としての
責任も終わるんだね

それではまた来るよ


 
2019年12月30日(月)
裕子さん
8年と6ヶ月が過ぎました
もう後一日で2019年も終わりのところで
ここに来ることができました
今年も
時間に追われるように
1年が過ぎていきました
自分にとって
激変の2019年
ランニングが生活,生きがいの大きな柱であったのが
ランニングストップによって
変わりました
体調を崩さないように
それに対応して
生活を変えていった

「壁」に見える70歳
ここを何とか乗り越えていきたい

これから
子供たちも家庭をもち
周囲の
環境も変わっていきそうです

サザンカの花も
咲き始めました

見ていてね。
 
 2019年11月29日(金)
裕子さん
8年と5ヶ月が過ぎました
こんなに遅れて
ここにきたのも
初めてかな
とにかく
忙しい
天気がこの頃悪くて
今日は久しぶりの快晴だったんだ
洗濯3回,シーツも洗ったり干したり
フー
ピアノの練習
明日の科博の準備

続きます
ここに来ないと
なんか落ち着かない
みんな元気でやっています
ユーの彼氏とあったよ
いい人で安心しました
きちんとけじめをつけて
前に進む姿勢
誠実さを感じました
これから大変かと
思うけれど
見守っていてね

それではまた来るよ
 2019年10月24日(木)
裕子さん
8年と4ヶ月が過ぎました
日本の10月は大変だったよ
大きな台風19号が直撃
大きな被害と犠牲者が多数でました
近くの利根川も
こちらに移って初めて見るような
増水だった
風もどーんというような音とともに
我が家をおそったけれども
あのかいづかいぶきの1本が根っこが見えるくらい
まで傾いた
でも車庫の屋根など大丈夫だったよ
ほんとに
1日1日生きていることのありがたさを
感じています

ミーの結婚式も終わり
つぎはユーの結婚へ向けた
大事な日が
近づいています
ユーの彼氏が我が家に初めて来るんだよ
彼氏が相当緊張しているようだけれど
こちらも同じ
どうしようかなぁ
と少しずつ準備を進めています
裕子さんも
一緒に同席しているつもりでね
しっかり見ていてね

親としての
役割ももうすぐで終わるのかな

この辺にするね
また来るよ! 
 2019年9月25日(水)
裕子さん
9月20日で8年と3ヶ月が過ぎました
9月21日は裕子さんの生まれた日
でしたね
この日に
ミーは結婚式をあげました
裕子さん
聞こえましたか
ミーが
お父さん!お母さん!と
語りかけました
結婚式では
おきまりの
花嫁からの手紙です

あたかも
裕子さんが会場にいるかのように
ミーは語り
そして
最後に
「お母さんにここにいてもらいたかった」
母ちゃんと二人で泣いていただろう
自分は号泣に近い状態で
2人分の泪を
流したよ
ほんとに
夢のような
場面でした
教会式で
ミーと
2人で腕くんで
赤い絨毯の上を歩いたんだよ
大きなホテルで
台風の接近で
大雨が降るのではと心配したけれど
雨は降らず気持ちのよい天気になりました
参加の皆さんが
いい結婚式だった
と満足されていたので
ミーもケンさんも
喜んでいたよ

ほんとに
今でこそ
母ちゃんとお話しすることがたくさんあるのに
泣き言をいっても
しょうがないね
この辺でやめておくね

またくるよ



2019年8月22日(木) 
おっと!
7月ここにきていなかったね
8月20日
8年と2ヶ月が過ぎました
飛ぶように毎日が過ぎていきます
そちらは変わりありませんか
こちらはいよいよ
ミーの結婚式が迫ってきました
なんと裕子さんの誕生日の日
ディズニーランド近くの豪華ホテルで
大分,規模が大きくなってきたよ
自分たちの結婚式は
予算内できっちりやったよね
沖縄から多くの友人が来てくれるみたいだよ
裕子ちゃんも会ったことのある
「若者」もいる
何か小さい頃の写真などもスライドショーするらしく
アルバムを全部出して
部屋いっぱいに広げて選んでいたよ
じいちゃんが撮ってくれた写真が大量にあり
こんなときにしか見ることがないけど
若かりし頃の裕子さんとの写真
結婚の写真など
ミーも
見入っていたよ

アルバム整理もやりたいけれど
なんか一人で見ると
寂しくなるから
こんなときに
見ると
懐かしくて
涙が出るよ

足の回復はまだまだ
だけど気持ちは元気でいるよ
8月最後は利根川楽走会の
つくば合宿がある
今回車とウォーキングで参加
仲間と交流できることが
貴重です

この辺にするね
またくるよ
 2019年6月20日(木)
裕子さん
8年目がきました
長いようで短い
短いようで長い年月でした
そちらではすっかり落ち着かれたのではないですか
お父様とお母様とどんな生活をしていますか

自分は70歳と1.5ヶ月過ぎました
走る事ができなくなって
もうすぐで3ヶ月経ちます
実は今また九州高千穂にいるんだけれど
レンタカーでの移動で楽なんだけれど
車への乗り降りがきつい
痛みがあります
どうしても動作が鈍くなっているようです
とにかく普通に歩くことができることを
目標にします

ランニングの時間がなくなって
タイミングのよいときに
「痴呆を防ぐための
ピアノ教室」というのが
市の広報に出ていたのね
申し込んだら当たりました
全部で8回でもう4回終わったけれど
これが楽しくて
それを指導する先生が
元気でやる気を引き出してくれたみたいで
何と眠っていた
ピアノの音が響いています
本気でやってみるかと思うようになっています
おもしろいでしょ
いつまで続くか見ていてね
ピアノの前にすわることがうれしい!
という状態です

ミーの結婚式のための
衣装合わせに
行きました
ミーがついてきてくれて
花嫁の父の
モーニング姿が一応できました
裕子さん
の衣装合わせもしたかったよ
大役を果たすための
心準備を始めなければと思います
これもしっかり見ていてね!

それでは
今日はこの辺で!

2019年5月21日(火)
裕子さん
7年と11ヶ月が過ぎました
今日は大雨が降った。
昨日は
あの九州の屋久島で異常な降雨で
縄文杉観光の人達が危ない
状況に立たされたと
ニュースは報じています。
世界各地での異常気象での災害が多発しているんだよ
毎日無事に終わることが貴重に思えます

70歳と15日
やはり違うよその響き,高齢者の領域に入った
という感じだよ
医療費が2割負担の保険証が届いた

3月24日から
2ヶ月が過ぎようとしています
ランニングのない生活
に少しなれてきました
体調を崩さないように
食事の工夫など
自己流のいいと思うことをやっています
70歳を記念して
人間ドックにも
いったよ

何とかからだぜんたいは良好な状態らしい
歩くことがまだ正常ではないんだ
少しずつ正常に歩く距離は
伸びているようだけれど
1kmにもならない
自然と右足をかばう歩きになってしまう
今日も医者から痛み止めをもらいました
薬もいい加減に飲ででいたけれど
しっかり飲んで
改善を期待するよ

毎朝,起きると足の変化を期待しているんだけれどね
走れないから時間ができた
その時間に何をしていると思う
裕子さん!
次回はこの話をするね
今回は暗い話しばかりだったね
みな元気で
頑張っているよ

それではまた
 
 2019年4月25日(木)
裕子さん
20日が過ぎました
7年と10ヶ月になりました。
もうすぐ70歳が近づいています
それを前にして
試練なのかな
自称ランナー
が3月24日を境に
歩くのさえ困難な状態になってしまいました
100kmマラソンを完走しても数日の内に
回復して走っていたのに
右足はなかなか回復しない
裕子さん!
悩んでいるよ
生活の真ん中にランニングがあった
ランニングは大きな喜びであり
旅行,学習
の基本であり
走ることができるから強気の計画も立てられました
旅先でも少々危ないところにも
足を踏み入れた
そして何よりもランナーとしての運動量
がからだをいい状態に保ってくれていた
1kmも歩くのも普通には歩けない
今のところ日常生活はできるけれど
実にスローに老人らしい動きになっている
どうしよう

とにかくもうジタバタせずに
専門家に診てもらいながら
いいと思うことはやってみるよ
エレベーター,エスカレーターを一切使わない!
と自慢げに公言していた
今はそれが頼りです

70歳は通過点に過ぎない!
と豪語したかったけれど
自分にとって
70歳に
やっとたどり着いた
という感じだよ

さあこれに対して
裕子さんどんな言葉をくれますか

あれだけの痛みを乗り越えた
裕子さんだから
きっと笑い飛ばしてくれるよね
「何言っているのよ
十分走ってきたでしょう!父ちゃんは少々なことではすぐ走り始めるから
完全に走れないようにして少し休みなさい!ということよ!
ランニング以外のことにたっぷり時間を
使いなさい


そうかぁ!そう考えればいいかぁ!!
またくるよ
ありがとう!
2019年3月23日(土
裕子さん
20日が過ぎました
元気ですか
「冥界からの電話」佐藤愛子
を読んでいるんだ
裕子さんもきっと知っている佐藤愛子さんが書いている
そんなことがあったらいいなぁ
と半信半疑なのだけどね
ほんとに
声を聞きたいね
何かと相談したいことも愚痴も聞いて欲しいね
夫婦とは
何か行動する前に
誰にも言えないこともいえて
最後まで支えてくれる存在だよ
老夫婦が寄り添って自分たちの世界の
話しが漏れ聞こえることがある
ゆっくりとした時間が流れている
これでいいのかな
といつも思いながら時間が流れていく
こんなこと思い出すよ
マラソンのゼッケンが
4と9ばかりの数字
自分が「なんかいやな数字ばかりだ。」
といったら
「いいじゃない!父ちゃんの生まれは1949年
その4と9と思えば。」
「そうだね」
といって
前に進んだ

あーあ

この頃

転倒事故にあったり
コーヒー店で女性客が手元を狂わせて
コーヒー全部新品のセーターに引っかけられたり
いいことないんだ

あすは

気分を変えるためにも
茨城のウルトラ100kmマラソンスタートラインに立つよ
1ヶ月ランニングなしの生活で完走は無理だけど
少しでも前に進むように頑張ってみる
応援していてね
また来るよ
 
2019年2月23日(金) 
裕子さん
20日が過ぎました
7年と8ヶ月になります
少し寒さもゆるんだかなという感じ
昨日確定申告をしてきたんだ。
龍ケ崎の税務署だよ
職員の方のいうがままに
パソコンに入力
結果は少しお金が戻ってくることになった
なぜか気分がよかったよ
帰り道,久しぶりに
懐かしいスーパータイヨーへいった。
我が家が6人家族のとき
よく二人でいったね
驚いたことに裕子さんといった
頃のまま店の売り場が変わっていなかった
懐かしかった!お魚が新鮮だったね
サンマを1匹かったよ

そして
ゆきのバレエの発表会も
裕子さんに見せたかったね
あの小さいときからまだ続いている
そして決してうまくないけれど
楽しそうな表情で踊っていたよ
自分の「世界」をもっている
写真見せたいけどね
そちらでもラインができるといいけどね

さとも新しい生活を始めている
みな元気でいるよ

もうすぐ3月あの大震災が起きて8年目になる
われわれにとっては辛い日々の始まりが3月だったね
また桜,桜,さくら,サクラと世が
浮き出す

それでは
またね
 2019年1月23日(水)
裕子さん
7年と7ヶ月が過ぎました
さむいさむい
寒くても
現役の時はぱっと起きてネクタイ締めて
準備して出勤していた
勤務校が近くだったとき
十二中と飯塚小のとき
一緒亀有から自転車で通ったね
なつかしい
きつかったけれど
楽しかったね

いまは
起きるのに時間がかかる
暖房で部屋が暖まるまで
布団のなか
こんな状態だよ
これで
ランニングもなし科博への「通勤」もなかったら
どんどん
弱っていくね

今年は国内で走り回るよ
大会にも月1回はでるつもり
みててね
またくるよ
2018年12月28日(金)
裕子さん
やっとここにこれた!
20日
7年と6ヶ月が過ぎた

こんなに遅れてここに来たのは初めてだね
とにかく忙しく毎日精一杯生きてるんだ!
12月3日から19日まで
「ホノルルマラソンとハワイ島」
と題した旅行をしたんだよ
そちらからも見ることができた?

ホノルルマラソン必死だった
今までのようにはいかなかったけれど完走できた!
そしてハワイ島(ビッグアイランド)で
レンタカーで
大ドライブしたんだよ
日本とまったく逆の車と道路
遙か彼方まで見える道をまっしぐら
人生初めての最高のドライブだった
裕子さんとも
ドライブを楽しんだね
となりに誰もいないドライブにも
なれてきたけれど
このときばかりは
裕子ちゃんが
となりにいてくれたら
わーわー感動をともにできただろう
と思ったよ

1月の東南アジア大旅行に始まり
大旅行で終わる
1年だった

何とかみな元気で生きているよ!
正月にはいくからね
 
2018年11月22日(木)
裕子さん
お久しぶり
20日
7年と5ヶ月が過ぎました
自分は11月で
69歳と6ヶ月が過ぎ
もう次の年齢が近づいてきました
時の流れがはやい
まだまだここに落ち着いてくることができないほど
やることがあってフーフー言っているよ
今週の日曜日に
つくばマラソン大会にでるよ
初めてフルマラソンを走った大会だよ
あの頃裕子さんもいたね
応援してくれた
あれから時を経て
だいぶようすが変わってきた
完走できるかなぁ
の不安が大きい
自分自身のからだの変化に対応して
自分の気持ちも変えていかねばならないんだ
この
つくばマラソンは
一つの挑戦になる
見ていてね
応援して!
頑張る
またくるよ!! 
 2018年10月26日(金) 
裕子さん
こんばんは!
7年と4ヶ月が過ぎました
やっとここに来ることができました
ほんとうに忙しい
こんなときに
インターネットの接続のための
機材が故障したり3年前に購入したプリンターが故障したり
その回復に多くの時間をとられました
外に出ての活動が多く
家事が十分にできなくてイライラ
ランニングも股関節の違和感
近くの整形外科通いして
1ヶ月
今日のランニングが
回復の兆しを感じさせてくれて
少し明るい気持ちになっています

一人生活に
完全になれてきたけれど
独り言が
多くなってきたよ
一人で二役の
会話をしている
これ異常かな
と思うこともあるけど
それで
落ち着くから
いいんだよね
天国から
母ちゃんが笑ってみている
だろうと
想像しています

1日1日生きることが
大変だなぁ

少し弱き

また聞いてね!!!!

  2018年9月21日(金)
裕子さん
こんばんは!
9月20日7年と3ヶ月が過ぎました
そして今日は裕子さん生誕62年になるね
仕事をしていた女性が仕事と子育てから
解放されたら
より若々しくなるようだ
裕子さんも
きっと晴れ晴れしい毎日があっただろう

今日は
ジュンと
いわさきちひろ〜27歳の旅立ち〜
という記録映画をみてきたよ
大雨だった
静かに自然と涙があふれてきた
あのやさしい
子供の幸せと平和をテーマにした
ちひろの絵
がどのようにして世にでてきたのか
その背景を深く知ることができた
若いころの写真が
裕子さんに似ているんだ
小さいときから絵を描くことが大好きだった
そして55歳の若さで肝臓がんで亡くなられた
もっと絵を描きたい!

今や世界に知られた有名な画家いわさきちひろ
無名だけれど絵を描くことが大好きだった
裕子さんとがダブって見えてきた

また来ます

 2018年8月22日(水)
裕子さん
8月20日で7年と2ヶ月が過ぎました
なかなかここに来るのも
大変なくらい忙しい毎日が続いています。
少し涼しくなったかと思えば
また猛暑
台風が続けて二つ押しかけてきたり
日本列島も自然災害が
次々と起きています
いつなんどき
それに巻き込まれるか
という不安があります
そちらは
どうかなぁ
いつも平静な
静かな毎日かな

6月体調を崩し回復するまで
3つの病院にいったよ
風邪,肺炎,ぜんそく
などの病名
回復力が落ちているんだね
風邪からとんでもない病気に
進むんだね
ほんと,一人だと
こんなとき
辛いね
寄り添いながらヨタヨタして
病院に
来ている
老夫婦が羨ましいよ

体調崩さないように今一度
自分の生活を考えるよ

今ほぼ回復して
今日も酷暑のなか13kmランニング
できたよ

まだ話あるけど明日のために寝るねえ。
 
 2018年7月23日(月)
裕子さん
7月20日で7年と1ヶ月が過ぎました
裕子さんも
知っている自分の友人
遠藤さんが7月13日にそちらに逝かれました
裕子さんと同じ年齢で
裕子さんとも
すぐ親しくなりましたね
たよりの相棒として行動を共にしてきました
裕子さんが逝ってしまった時のように
「順番が違うだろう!」と叫びたい気持ちです
みんな裕子さんのいる
そちらに必ず逝く
それが早いか遅いかの違いと
考えれば少し気が楽になるかな
益々
自分がそちらに
逝く日が近づいてきたように
感じます
まだまだ
こちらでやりたいこと
やらねばならないこと
裕子さんの無念さ遠藤さんの無念さを
胸に
精一杯
生きていきます

こちらは
いま猛暑猛暑
命に関わる
暑さに警戒を
熱中症熱中症が叫ばれています
幸いランナーとして
時間は短くしているけれど
相変わらず走っているよ

そうそう
昨日はね
あの清里清泉寮にランニング仲間と行ってきたよ
裕子さんと一緒に行ったことが思い出されて
じーんときた
早朝に富士山を見ながら
食事したね
あの頃より
清里も
賑わいがあったよ

ゆきは新しい職場でがんばっているよ
さとは理科教師として初めて1学期終了ほっとしているよ

それでは
8月お盆お墓で会おうね
 2018年6月22日(金)
裕子さん
6月20日7年が過ぎました
雨の中,この日は一人でお墓に行きました
落ち着きます
大黒柱だった
母ちゃん

失い
途方に暮れ,寂しさを
乗り越えてはないな
寂しさに慣れて
今ここにいます
いつまで経っても
乗り越えられない,慣れることにしました
ゆきさとみ
に母さんの無念さを
考えれば
どんな困難でも
乗り越えられる
と励ましています
まじめに
一所懸命
頑張っています
自分は
ちょっと元気を失っています
ランニング中止のドクターストップ
元気の素は
ランニングできる
からだである
と改めて認識しています
少しずつ回復に向かっています
気持ちを
切り替えて
再スタートしたい!
見守っていてね!
また来るよ
 2018年5月25日(火)
裕子さん
6年と11ヶ月が過ぎました
5月28日にオーストラリアから帰ってきました
友人が言ってくれましたね
千の風となって
裕子さんが一緒にいると!
本当に
ハラハラドキドキの旅で
きっと裕子さんも気が気でなかったのではと
想像しています
でも
必ず女神のような人が
現れて
助けてくれました
裕子さんの使いではと勝手に考えています
今回もちょっと
危ない場面もありました
でも何とか無事に
帰国できました
でも
海外に行くと
お年寄りのカップルが
若者のように
寄り添って
歩いているのを
何度も見かけました
こんな一人旅
でない旅ができたらなぁ
と一瞬思いますが
すぐそれは消します
一休みして
また旅するからね
たのむよ!!
皆元気だからね!
  2018年4月24日(火)
裕子さん
6年と10ヶ月が過ぎました
旅立つ前にお墓にいったけれど
聞こえたかな
一緒に旅立っているんだ
今シンガポールだね
裕子さんが好きになりそうな場所だ
熱帯の気候で
植物の緑が濃く
樹木に勢いがあるよ
そこにいる動物たちも多様だね
裕子さんが絵を描いたらどんな絵になるだろう
それにね
建物もなかなかおもしろいよ
無機質な建物だけれど
日本では見かけないような配色とデザインを競い合っている
感じで電車から見ていも
飽きないくらい
暑い中絵を描いている人は見かけないけどね
とにかく
旅は始まったばかり
一緒に
楽しもうね

明日の準備をするから今日はこれにて

 2018年3月23日(木)
裕子さん
6年と9ヶ月が過ぎました
やっとここに来ることができました
あの駅にいく,いつもの道の桜の芽が膨らみ始め
もうすぐ花が咲きそうです
いつものように
季節の移り変わりを
感じているよ
桜を一緒に見た最後のときを思い出します
なんとつらい気持ちで見ていたのだろう
あれから
桜桜
と世の中が騒ぎだすとき
その桜とともに
思い出されることは
人それぞれあるんだと思いました
桜はきれい!必ず皆が喜ぶ花
とはいえないなと思いました
東日本大震災の被害に遭われた方々
はどんな気持ちで桜を
眺めているのだろう
こんなことを
桜をみて思います
しかし
自然の植物たちは
いつものように何もなかったかのように
咲いてくれる
だからありがたいんだね
そちらではどんな花が咲いていますか

みんな元気でいます
お墓にいったときの
サトの報告聞こえたかな
一緒に喜びたかったね

今度の日曜日に
46回目のフルマラソンに参加するんだよ
母ちゃんが元気なとき
現役で忙しかったけれど
食事とか走った後にすぐ食べることができるように
してくれたね
思い切り走ることができて
「ゴールできた!」のメールを
出すのを励みに頑張れた
ベスト記録も次々更新できたね
今回はワースト記録の更新になりそうだ
ランナーとしての生活も
少し変えていくつもりだよ
母ちゃんの助言を聞きたいところなんだ

またくるよ
2018年(平成30年)2月21日(水)
裕子さん
6年と8ヶ月が過ぎました
今日本は韓国で開催の平昌オリンピックが連日のように
報じられているよ
相変わらずメディアは「金!金!金!」といっているけれど
それより
この日に向けた選手達の
思いが伝わるような
場面,選手の涙など見ると感動するね

東南アジア大旅行から無事に帰り
今その旅を振り返りながら
次の旅の準備をしています
今だからできること
やりたいことをやる
時間は限られている,時間がたりない
そんな気持ちなんだ

どの時間を削るか
今ランニングの時間が寒さで
縮こまり
なんと久しぶりに体重が3kg増えたんだよ
これはよろしくない傾向だけど
いいやぁ!

もうすぐ3月が近づくと
東日本大震災を振り返る
報道が多くなります
それが
聞こえ出すと
同じ年の
あの6月がまた近づいてきます

忘れないからね!
 
 2018年(平成30年)1月22日(月)
裕子さん
6年と7ヶ月が過ぎました。
1月に入っていきなり
東南アジア大旅行
と称して
久しぶりの
長期の旅行の真っ最中なんだよ
本日カンボジアからタイへ移動し
そこから書いています
母ちゃんの「いいなぁいいなぁ父ちゃんずるい」
の声が聞こえそうです
あのアンコールワットに
行ってきたんだよ
さすが世界遺産 
世界各国からの観光客が多い
アンコールワットの
日の出を見るために
早朝まだ暗いうちから
出かけたけれど
そこにも多くの人がいたんだ
とにかく歩かなければならない
そしてさらに
ほぼ直角に近い階段の上り下りが
たいへんだった

今日はタイでは真夏の暑さ
東京は大雪で
交通機関も
混乱したようだよ
我が家は留守だから
雪かきもできないから
通行する人が困るだろう
しょうがないね

とにかく
台湾・ベトナム・カンボジア
の道路交通事情が
危ない
気を引き締めて
いくよ
それではまた
2017年(平成29年)12月20日(水) 
裕子さん
6年と6ヶ月が過ぎました
そちらは変わりありませんか
毎日寒くて
外に出るのが億劫になっている
ランニングのために外に出て行くことが面倒になっているんだ
だから友人とのランニングの約束での
ランニングでなんとか練習しているんだよ
暑さには結構強いけど
こんなに寒さを感じるというのも
解せないんだよね
とにかくランニングしないと
気持ちが悪い
でもしたくない
ということで考えたんだ
自宅で走る
1階2階を行ったり来たりグルグル回ったり
10分間走ったんだ
一人暮らしだからできることだよね
でも汗も出てきて
快い
なにせデスクワークが疲れたら
そのままスタートすれば
いいんだからね
どうだい
母ちゃんが見たら
絶対笑うよ
自分でやってても
可笑しい

1月大旅行を計画している
暖かいところ
赤道の近くにいくよ
今詳しく計画を立てているところだよ
一緒に行きたかった
そちらから見ていてね

1年がもうすぐ終わってしまう
慌ただしいけど
なんとか頑張っている
年末餃子をつくり
ユキ,サトと年を越せそうだ
1日1日が
大切に思える

我が家にも
大きな変化が
ありそうだ
母ちゃんも
上から見てればわかるでしょう
見守っていてね

それでは
また来るよ

 2017年(平成29年)11月22日(水) 
裕子さん
6年と5ヶ月が過ぎました
やっとここまでこれました
相変わらず忙しい
最近
ランニングしていて
どうも思うように
からだが動いていないと感じるんだ
それが顕著に表れたのが
11月の楽走会の練習会
いつもは多少の空腹でも20kmくらい
は平気だったんだけれど
空腹を感じたらガクッときて
ゴールでフラフラ状態だった
仲間に「顔色が悪い」と言われたんだよ

今週の日曜日に
つくばマラソン大会にでるため
医者に診てもらうことにしたのね
久しぶりの病院
自分のような老人であふれていた
車いすの患者さんが目立った
父母を車いすでこの病院に通った
ことを思い出したり
そして
裕子ちゃんと
通った病院
入院
のことが思い出されたり
懐かしい思いさえ
したよ

ただ老夫婦も多く目立った
お互いにからだを
支え合いながら
の様子を見て
「いいなぁ」
どんなにヨタヨタしていても
連れ添いがいると心強いよなぁ
と思いました
それだけに
自分は
病院でも
しっかりしておかねばと思ったんだよ

若い女医さんが診てくれました
驚いたのは
最初から最後まで
コンピューターへの入力を続けていたこと
そのスピードの速いことね
こちらを向かなかったら
一言言おうと思ったけれど
そういうこともなく
しっかりと
目を合わせて診てくれた
お医者さんも大変だね

血液検査,尿検査をやって
その結果を見て診察してくれた
貧血とか何か病気を期待?
したんだよね
原因がわかればそれに対応すればまたランニングの
パフォーマンスが元に戻るとね
しかしマラソン大会に出ても問題なし
異常なしだって
口に出したらおしまい
と心していたこと
母ちゃんには言うね
「年にせいかな」
でもまだだと思っているんだ
もうひとがんばりしてみるよ

そうそう病院の話
あの東取手病院が
12月から移転新築病院で営業開始
明るい雰囲気で行ってみたくなるよ
お世話にならないように
頑張ります

ユキ,サトも元気で
頑張っている

もうすぐ12月だね
またくるね

 2017年(平成29年)10月20日(金)
裕子さん
6年と4ヶ月が過ぎました
そちらはどうですか
この1週間ずっと雨が降っています
もう少し冬は待ってよ
というのに
寒い寒い
行き当たりばったりに
冬服を引っ張り出し凌いでいます
服も古い服は捨てて新しいものにしたい
裕子ちゃんが一緒に買い物に行ったとき
試着のための服をどんどん選んで
その中で気に入ったものを
買いましたね
一人ではそういうことができないし
何より
似合う似合わないと言ってくれる人がいることがありがたかった
まだそんな思いが抜けきらないから
グズグズしてるんだね
気持ちも新たにするため
1日ががりでの
服の買い物を考えます

掃除をして家をきれいに保つ
ことは
人間らしく生きるため必要かなと思う
そのようにしようと思わなくなったら
おしまいかな
と思うんだ
でも結構大変
そこで
思い切って
掃除ロボット
を手に入れました
使えるのか半信半疑でしたけれど
本当にありがたいと思うぐらい
はたらいてくれるんだよ
思わず「ロボット君ありがとう。」と
声をかけている
ちょっとおかしいけどね
これはこれから普及しそうだ
普通の掃除機以上に丁寧に掃除できるよ
大きな生活の変化かな

さぁ
今日はこのくらいにするね
やることが
たくさん

またくるよ
2017年(平成29年)9月20日(水) 
裕子さん 
6年と3ヶ月が過ぎました
そして明日が裕子ちゃんの生誕日ですね
自分のなかでは全然年をとっていませんよ
あの笑顔のままです
毎日忙しくて
相変わらず追いかけられているようです
昨日台風接近の後の
外回りは枯れ葉が吹きだまり
我が家の門の前に集合していました
もう少したまってから
掃除だと
ランニング優先の生活は変わらずです
とにかく掃除するエリアが広い
草取りもしなければ
とか
何か気が休まらない
家に1ヶ月くらい食べ物の買い物以外
外出しないで
掃除整頓洗濯
だけの
時間をとらなければ
このイライラは
続きそうです
お隣さんはご夫婦で声を掛け合いながら
分担しているようです

思い切って
家を変えるかとも考えたけど
自分が動けるあいだ

しなければならないことが
いっぱいある方が
いいのかなと考えています

東取手病院の新しい建物が姿を現しました
広くてきれいな敷地も
整備され
12月開業に向け準備しているようです

とにかく皆元気に
協力しながら
生きています

あっそうだ
今世界は毎日のように
ミサイルの話題
何のことかわからないと思うけど
とんでもない
ことが
進行中です

この辺で終わるね
また来るよ!
 2017年(平成29年)8月20日(日) 
裕子さん
6年と2ヶ月が過ぎました
そちらはどうですか
お盆を皆でお墓参りをして
会いに行きましたよ
話したいことたくさんあります
この頃我が家の周りの環境の変化を伝えてきたけど
裕子ちゃんがもしもかえってこれたら
驚くと思う
今年田植えがなかった
いつもだと稲穂がたれてどんどん黄金色になる
田んぼが楽しみだったよね
それがなくなり
凄い勢いで他の植物が気ままにのび放題
田んぼは一朝一夕にはできない
子々孫々受け継がれてきたものだよ
きっとこの田んぼの持ち主の農家の方は
自分たち以上に心を痛めているだろうね
これも政治のせいだと思う

裕子ちゃんが贈ったお父さんへの
お土産,天童で手に入れた
将棋の駒をもらったよ
お父さんが大事にとっていたのだろうね
一つ一つの駒がまだ丁寧にセロハンで包まれていた
お父さんは将棋が好きだったんだね
今や若い将棋の棋士が話題になっていて
将棋ブームなんて言われているよ
実は自分は
少年時代将棋で結構遊んだんだ
将棋を買ってまでやろうとは思わなかったけれど
思わず手に入り
やり始めたよ
今や相手がいなくても
スマートフォンのアプリを利用し
将棋盤にうっていく
あの将棋の指す音がいいんだね
そちらのお父さんに
よろしく言ってね
お父さんの将棋を使わせてもらってます
みんな,元気で頑張っているよ
毎日毎日やることで
追い回されている
ふーっ
この辺で
また来るよ
 2017年(平成29年)7月20日(木)
裕子さん
6年と1ヶ月が過ぎました

小林麻央さんが6月22日になくなりました
34歳でした
裕子さんと同じ病気でした
つらかっただろう
無念だっただろう

梅雨もあけて
毎日酷暑が続いています
早朝に起きて
汗が噴き出すランニングから
1日がスタートできれば気持ちよい
けれども
今日もそのつもりが
起きることができなかった
できなくても
人に迷惑かけることもないけれど
気持ちが悪いね

先月も言ったけれど
うちの前の田んぼだったところが
1ヶ月でまた草ボウボウ
自分の背丈以上になるものも
あって
あの田んぼの整然とした緑を見ると
いいなぁ!って思うけれど
草ボウボウを見ると
どうなってしまうのか不安になる
カエルにとっては
最高の環境が得られたようで
例年と違って
凄い鳴き声が響いている
人も立ち入らない
カエルの天国になったようだよ

夏も本番
今年は8月広島〜長崎を走るという
イベントに参加するつもり
もうそろそろ
その準備もしなくては

そちらでの
様子も聞きたい
なぁ

それでは
この辺で
またくるからね!
 
 2017年(平成29年)6月20日(火)
裕子さん
6年が過ぎました。
先日7回忌を終えました。
秋田からも来てくれて人数は少ないけど
裕子さんへの思いを語り合うことができました
旅行のお友達は元気で
旅行を続けています

うちの周りの変化を
伝えてきたけれど大きな変化がありました
今年からうちの前の田んぼに水が入らなくなりました
田植えがなくて今は雑草が
生い茂る荒れ地になっています
本当に残念
稲刈りの頃
外に出ると稲のかおりがしたものでした
どうして田植えができなくなってしまったのだろう
日本の至る所で起きていること
が目の前でも起きている
人手不足、高齢化、農業ではやっていけない
そんなことの結果です
残念です

あとね
あの冷蔵庫がダウンしてしまった
修理を依頼したら
もう部品がないという
一昨日新しい冷蔵庫と
引き替えに引き取られていきました
裕子ちゃんが一番多く接した冷蔵庫
子供たちを育て、仕事を
バリバリやっていたときを支えてくれた冷蔵庫
車に載せられるまでしっかりと
写真をとり
お別れしました

ちょっとしんみりしたはなしばかりだけど
この
6月5日から東北旅行に行ってきたよ
車でね。一人ドライブも
慣れてきたかな
1500km以上の大ドライブになったよ
11日には岩手県のウルトラマラソンにも
でて完走できた!
本当にうれしかった

みんな元気に
頑張っている
これからも
見守っていてね!

また来ます!
 
2017年(平成29年)5月20日(土) 
裕子さん
5年と11ヶ月が過ぎました
3月4月5月
家族の誕生日が続きました
68歳を機に大きな目標を公にしました
あと10年後
フルマラソンの
スタートラインにたち完走する
これを掲げたのは
走り始めのときだった
今回さらに具体的に
東京マラソンのスタートラインとしたんだよ!
軽い気持ちだったけれど
考えてみると
大変困難な目標に見えてきました
10年前を振り返ると
この間に
いろんなことが起きた
母ちゃんも逝ってしまった
これからの
10年何が起きるのだろう
日本は世界は平和なのか
そして
自分がその日まで生きていられるのか

考えると
東京マラソンのスタートラインに
立つ
こと 
も大変なことだ

自立してもうすぐ6年が過ぎようとしています
あと10年
自立して生きることができれば
スタートラインも見えてくるのかなぁ

裕子さんが見守ってくれている
ことを励みに
頑張ってみます

来月裕子さんの
お友達に
久しぶりに
お会いできます
それではこの辺で
また
くるね

2017年(平成29年)4月22日(土) 
裕子さん
今月もフーフーいいながら生きています
毎日の食事をどうしよう
これの繰り返し
裕子さんの食事づくりのの延長上にあるけれど
主夫6年だいぶ応用をきかして
食事をとっています
幸いにも体調を崩すことなく
ランナーとしての体力も維持できているようです

それにしても
あーあのため息が多くなっている
今日も1日無事に終わった
と寝床につきます
ほんと
正直疲れています
裕子ちゃんがいたらなぁー
のささやきが時々顔をだします

さくら桜と世間が騒ぐ季節も
おわりました
桜を目の敵
にした
ときから
時を経て
あの桜並木を歩いたときの
絶望感,つらさ

振り返ると
桜にはなにも罪がないことに
気がつきました
あのとき桜が
自分に
がんばれと
励ましてくれていたのかも
と考えると
気が楽になりました
桜も見るということにも限りがある
これが最後の桜かもしれない
と思うと
桜の
命も
いとおしく感じます

桜がおわり
家のまわりはカエルが鳴き始めました
ケロケロ落ち着く音だよね

そうだ
あの介護施設が
大きくなっているよ
そこで
5月に歌うことになりました


ランニング
科学
旅行
その他

がんばるね!
ユキ・サトも
がんばっている
それを生きがいに
がんばる!

それでは
あっそうだ
7回忌の準備しているよ
裕子ちゃんのお友達も
来てくれるよ
楽しみにしていてね

それでは
また!!
 2017年(平成29年)3月24日(木) 
裕子さん
ふーっ,やっとここに来れた!
5年と9ヶ月が過ぎました
20日皆でお墓参りできました
3月に入ると
まだ記憶に新たな東日本大震災6年目がニュースで報じられます
また3月がめぐってきたかぁ
まだ行方不明の方,自宅に戻れない方
がたくさんいます。
ため息がでます
それとつながって
6月のあの日までのことが
はっきりと
思い出されます

3月といえば現役のときは
次の年度の準備
期待と不安の日々でしたね
昨年の9月60歳の裕子さん
の退職のときなんだね
ほんとうに60歳の裕子さんに会いたかったよ
よく仕事も頑張りましたね
うまくいかなくて泣いてばかりいた
新卒の先生から
多くの先生と生徒に支えられて
職場で先生からも生徒からも
頼りにされる先生に
なりましたね
今サトが同じ教育の道を歩き始め
一生懸命生徒のことを考え
頑張っています
裕子さんの苦労話し
や励ましの言葉を
聞かせてやりたいね
民間に勤めて仕事で悩むサト
に電話で励ましていた
姿が目に浮かびます

我が家のまわりが少し変化している
近くに新しい病院の建築が始まった
地下もあり大型クレーンが2台も常駐して大規模工事が
進んでいるよ
田んぼが大幅に削られきれいになるようだけれど
田んぼの生き物たちも殺され
いき場を失っている
と考えるとつらいですね

そして
ユキが教えてくれた
この3月で
北千住の
喫茶店サンローゼが閉店だって!
覚えていますか
裕子さんと出会った頃
職場が同じ足立区だった
デートの場所として何度も使わせてもらった
寂しいですね
最後
見てきます

皆頑張っています!
今日はこの辺で
終わるね
それではまた!
 2017年(平成29年)2月22日(水) 
裕子さん
5年と8ヶ月が過ぎました。
昨日一昨日と凄い風が吹いたんだよ
吹き飛ばされるのではないかと
一人で居るとこういうとき
心細いね
もうすぐ3月だけれど
まだ寒さが応えるね

そんな中でも裕子さんが
描いたピンクのサザンカがきれいに咲いて
そして散っていきました

ここにやっとくることができたように
毎日結構忙しく過ごしています
何しろ毎日のように
外出しなければ「ならない
スケジュールで
自分で作っておきながら
フーフー言っています。

隣の方が回覧を届けてくれて
そのとき
「この頃元気ない?何かあったら言って下さい」
と優しい言葉をかけてくれました
ランニングの時間が
少なくなり
心配してくれいるようで
ありがたいね

今週の
日曜は
第11回東京マラソンが開催されるよ
完走メダルをもって
病室にいったときのことを
思い出します
他の患者さんに
自慢してくれたよね
東京マラソンコースが
新しくなるけれど
病院が見えるところは
変わっていないよ
今回外れて,選手としては走れないけれど
時間をずらし
マイペースで全コース走るつもりです
見ていてね
皆元気だからね
またくるよ

  2017年(平成29年)1月21日(土)
裕子さん
5年と7ヶ月が過ぎました
新年を迎えることができました。家の山茶花が咲き始めています
こちらの都合でおもいきり剪定しても
肥料をやらなくても
必ず花を咲かせてくれます
植物の生命力を感じます
そして
ささやかな喜びがあるんだ
昨年10月頃かな,池に金魚を入れた
その金魚は観賞用でなく,餌用の金魚として
売られていた
それがまだ元気に生きている
今は氷が張った池の下のほうでじっとしている

平成28年度ももうすぐ終わりだ
裕子さんが退職する年度だったね
今の現役の職場もたいへんそうだよ

先日
母さんの法事をやりました
そちらではどうですか
跡を継いだ
若いご住職がなかなか
いい話をしてくれました
そちらの世界で
仏になる
ための
修行をするそうですね
信じることができると楽しいだろうな
そちらの世界でも
目標がある
と考えられれば
死は一つの出発点なんだね

最近毎日食後は
今までとった写真を見てるんだ
とにかく大量で
昨日やっと2010年の写真だった
裕子さんの姿が出てくると
なんかうれしかったよ
声も聞こえてきそうで
いい思い出が
いっぱい思い出される
今日は
2011年かな
これを見るのはちょっと辛いけど
見るよ

この辺で今日はやめる
またくるよ
 2016年(平成28年)12月25日(日)
裕子さん
5年と6ヶ月が過ぎました
裕子さんとお別れしてから
変わったことの一つに
年賀状を書かなくなったことです
いつも手書きで絵と達筆な年賀状を書く
裕子さんの隣で
大量のパソコンでの年賀を作っていましたね
世間の常識に反すること
日本の大事な伝統を止めてしまったこと
何か後ろめたい気もするけれど
もういいです
だからもっと時間のゆとりがあっていいのに
何か追いかけられているような
生活がこの1年も続いています
もっと要領よく
やればできるんだろうけどね
あっち行ったりこっち行ったり
忘れ物をして戻ったり
ほんと情けないなあ
母ちゃんがいれば少しは
なんてもう言っちゃいけないんだよね
2016年も終わりに近づきました
お姉さんも元気に自分の
道を歩いています
裕子さんがいればきっとこのときは
こうするだろう
と想像して協力しています
ゆきさとみも元気に仕事ができて
親として大人としての
つきあいができるようになったことが
嬉しいです
母ちゃんに見せてやりたい
おじちゃんが「いい人に育ったね」
と褒めてくれています

さとみが今日
友人のいる
インドそしてスリランカに
旅立ちました
相変わらず
アクティブな
動き
みなで見送りました
海外での日本人留学生が事件に
巻き込まれたというニュースが
流れています
心配だけれど
思う存分自分のやりたいこと
を優先して
動く
さとみのうごきに
刺激を
受けています
まだまだ話したいこと
あるんだけれど
このくらいにします
1日
皆で
会いに行くからね
 
  2016年(平成28年)11月24日(木)
裕子さん
やっとここまでこれました
5年と5ヶ月が過ぎました。
今日は関東地方平野部でも雪が降って少し
積もったんだ
54年ぶりとニュースで盛んに報じている
自分が13歳のときにあたるよ
裕子ちゃんは6歳くらいか
火曜日にはあの3.11以来の大きな地震で
東北地方にまた津波が
押し寄せてきたんだよ
毎日毎日生きていくこと
たいへんだ
久しぶり
家族で旅行できた
うれしかったよ
あの懐かしの清里へ
裕子ちゃんが
絵を描いた「美し森」の場所に立つことができた
「母さんがここで絵を描いているとき
父さんはこのまわりを走っていた

二人とももう大人
車の運転もかわるがわる
そして費用も割り勘
ここに母さんがいたらなぁ
富士山も
八ヶ岳も
くっきりと見えた
おにぎりと味噌汁を野外で食べた!
貴重な時間だったよ
こんな楽しみが
現役の時は
有り難かったね
また行こうと言ってくれて
大きな楽しみになった
それではこの辺で
またくるよ!
 2016年(平成28年)10月23日(日)
裕子さん
5年と4ヶ月が過ぎました
もうすぐ年末,時は過ぎていきます
相談したいこと,聞いてもらいことが
たくさんあるけれど
一人で解決して前に進むしかない
だから独り言もその解決の方法
にしています
大声を張り上げてこもっている思いを
ぶちまける
こんなことも自然と始まっています
幸い家が大きいので
外には聞こえていないようです

10月に入ってからまた生活が
かわりました
9月ほとんど毎日
4時30分起床5時ランスタートの生活でしたが
寒さを感じるようになり
それに抗して
無理することもないや!
と思いあっさりチェインジ
ただその生活で
早朝の勉強が確保できて
科学を中心にした学習が
凄く面白くなってきました
この辺の話
裕子さんもきっと興味をもって聞いてくれると
想像しています

ランニング,音楽,科学他の学習,そして「一人旅」
が自分の生活の柱だと思います
リタイヤしてもこれで
忙しい

母ちゃんと別れた直後は
家に一人で居る
寂しさjから逃げていたのかなぁ
3ヶ月滞在マルタから始まって
海外を次々と飛び回った
しかし
今は悲しいかな
一人暮らしも
定着して家に居ることで落ち着ける
ようになりました
1週間に一度は上野の科博にいく生活だけれども
もしも我が家でどこにも行かないで3ヶ月生活
できたら
これも
自分にとっては
初めてのことになると考え始めました

そうだ!
リタイアしたら
もう一度大学に入学して学生として
勉強したいと考えたこともあった
いまがそれだ!と思うようにしたら
国立科学博物館のボランティア
はいきた大学だと思えるように
なったんだ
ボランティアの最低条件の
参加日数に参加すれば
いいやという姿勢を
変えることにしました。

自分が努力して
全フロアーの活動に参加できるから
生物・地学・化学・物理の科学全体を
学ぶことができるんだ

先日ね
東大の柏キャンパスで
時空のさざなみ〜重力波が拓く宇宙への新しい眼〜
という講演会を聞きに行ったんだよ
開始30分まえに大きな会場が立ち席も入れて満席
やむなく野外のモニターで聴きました
今人気の村山という研究者だった
出てくる言葉も,今まで自分が理解していた
重力についても
「へぇー」という内容で難しくて理解できなかったけれど
これをなんとか理解したいと
思うようになったんだ
この講演を教えてくれたのが
科博のボランティア仲間
研究者から直接話を聞くことができる
科博でも毎日のように
研究者が
講義をしているんだ
まさに自分にとって
「自由」な大学に思えてきたんだ!
自分の興味に従い知りたいから学習する
そしてその面白さを
多くの科博の来観者に伝えることが
元理科教師としての
「大きな使命なんだ」
なんて思い込んで
頑張ることにしたよ

凄く長くなってしまった
疲れたでしょう

そちらに行ったら
たくさん話ができそうです
待っててね
そして
見てて!
また来る
 2016年(平成28年)9月21日(日)
裕子さん
5年と3ヶ月が過ぎました
今日が生誕60年だね。
母ちゃんはきっと素敵な
60歳になっているだろうね
今テレビなどで
盛んに見かけが30歳台に見える
60歳とか、これを飲めばとか
ほんとうに気持ち悪い宣伝が
まかり通っているよ
年をとればしわが増え
シミができる
それでいいじゃないねぇ
裕子さんは
きっと絵を描き
習字を教え
京都のガイドもできる
歴史の知識をさらに深め
そして科学にも興味をしめす
知的な60歳になっているだろうね
そんなことを
想像しています。
暑さから
涼しさへと季節も変わってきました
前回知らせた病院建設のため
田んぼがなくなり
重機が入り
工事が始まりました
大変な敷地です
近くに頼れる病院ができる
ことは有り難いけれど
そこにいた
生き物たち
が知らない間に殺されている
と思うとためいきがでます

一光さんの一周忌でした。
そちらで会えたかな

褒めてもらいたいこと一つ
なかなか朝起きることができなくて
ため息をついて始まっていた
一日だったけれど
時間を有効に使うために
早寝早起きに生活をきりかえたよ
続いている
自分は頑張っている!
またくるね
2016年(平成28年)8月21日(日)
裕子さん
5年と2ヶ月が過ぎました
そちらはどうですか
最近、裕子さんも知っている
永六輔さん、大橋巨泉さん他
有名人もそちらに行ってしまいました
知人にしろ有名人にしろ
知っている人が多くそちらに行ってしまうと
こちらは寂しくなります
裕子さんはもうなれたかなぁ

今日はブラジル リオデジャネイロオリンピック
最終の競技、男子マラソンの中継が
あったんだよ
テレビはオリンピックで大騒ぎ
選手達の頑張っている姿は
文句なしに感動します。
4年後は東京オリンピックと
いうことで
大きな流れができているけど
正直なところ
それまで生きてるのかな
それまで日本は大丈夫か
地震は原発の放射能は?
迎えることができるのかな

自宅の周辺も少しずつ
変わったきたよ
田んぼがドンドンなくなっていく
駐車場や病院の移転場所に変わるとか
裕子さんがもし
戻ってこれたら驚くよ
あのツタヤも7月で閉店
あまり嬉しい話はないけれど
みな元気でがんばっているよ
おじちゃんがじいちゃんが撮ってくれていた
ビデオなどを整理してくれた
裕子さんが娘にミルク飲ましているところとか
久しぶり声も聞くことができて
涙がでたよ
よく頑張ったよね
子供の成長の記録
皆で見て、ああだこうだと思い出を語りたかったね

もう8月も終わりに近づきました
カエルにかわって虫の鳴き声がだんだん
大きくなってきました
それでは
ここまで
また来るよ!
 
 2016年(平成28年)7月20日(水)
裕子さん
5年と1ヶ月が経ちました
昨日沖縄・与那国島から帰りました
「父ちゃんいいなぁ、私もいきたい!」
の声が聞こえるようです
日本最西端で周囲25kmくらい
走って一周したんだよ変化に富んだ地形
なみなみとした海を間近に見ながら
ほんとうに気持ちよかったよ
今回は「3万年前の航海プロジェクト」とに
参加が大きな目標の一つだった
20歳台30歳台の人達に混じって
舟づくりに取り組めた
世代の違う人達との交流で
多くの刺激を受けました
炎天下最後まで仕事ができた
ということも嬉しいね
草と蔓で舟をつくり
大人7人が乗れるんだ
自分も乗りたかったけれど
乗り手の
わかものが多いために
諦めました
でも自分は2つの舟づくりに
ほとんど最初から最後まで
参加できて
完成したときは
ほんとに感動したよ
だから
二つの舟を
一番前で見送れた

長い旅が終わり
また取手での生活が始まりました
そうそう
旅の途中
永六輔さんが亡くなった
という訃報に接しました
いろいろ感じることあるんだ

本格的夏が始まっています
みな元気で頑張っています
見ていてね!
 
 2016年(平成28年)6月20日(月)
裕子さん
5年が経ちました。
今日は
特別な気持ちで1日を過ごしました
驚かないで
北海道サロマ湖畔にいるんだよ
裕子ちゃんが絶対に気にいる場所です
曇りがちだったけど
青い空、青い海、そして色とりどりの
花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花
走りまわることが好きな自分も
ジッとしていてもあきないところだよ
裕子ちゃんなら喜々として
絵を描くだろうな

5年間何とか生きてきました
二人分を一人で
とつぶやき
裕子さんの無念さをおもうと
自分でも不思議な力がわいてきます
自分のなかで
生きている!

母ちゃんの代わりに
自分の話をよく聞いてくれて
それなりの
助言もできるようになった
娘達そして弟
に支えられて
 ここまで来ることが
できました
みな
元気で生きています
新たな気持ちでもう少しこちらの世界で
頑張るから見ていてね!!
そちらの世界に行ったら
話すことがたくさんだ
待っていて!
 2016年(平成28年)5月21日(土)
裕子さん
4年と11ヶ月が過ぎました
今月も精一杯生きました
ランニングも続いているよ
この頃夫婦連れで散歩している人
手をつないで散歩している
夫婦
いいなぁ
自分はランニングに
夢中になっていた現役時代
もっと裕子ちゃんと
歩けばよかった
一度だけ白馬で一緒に走ったこと
覚えているかな
「こんなゆっくりでいいの!」
いったよね。
裕子ちゃんは
徒競走ではいつも1番だったとか
でも走るのは嫌いだった
そういう人結構多い
ゆっくり走ること
これを一番先に教えなければならない人だった
のかもしれない
ドウしようもないこと言ってもしょうがないね
そうそう
上野の西洋美術館が7月に世界遺産に
登録される見通しだよ
いつも開館前から並んでいる
おばさん達に裕子さんが
いればなぁと
思うことがあります
科博での活動も
続いています
フロアリハーサルに合格して
11のすべてのフロアーに立つことが
できるようになったよ
凄いでしょう
今日は34q走で頑張った
まだ回復していないから
この辺で
またくるね。
 2016年(平成28年)4月21日(木)
裕子さん
4年と10ヶ月が過ぎました
また大変なことが
日本をゆるがせているよ
今度は九州・熊本大分を中心にした
震度7にも達する地震が連続して
起きている
東日本では東京もゆれたよね
今回関東はゆれていないけれど
連なっている日本列島の地殻で大きな
変化が起きていることは確実
みたい
みな何とか元気で生きています
そちらはどうですか
お母さんも少しはなれたかな
報告したかな
裕子さんがいなくなって
庭に出る気もしなかった
思い切って
一角を耕してスミレの花を植えたんだ
自分に似合わないけど
あまり手入れもしないでいいみたいだから
そしたらきれいに咲いて
通りから見るときれいなお花畑に見えるんだよ
隣の奥さんが褒めてくれました
きっと裕子さんがいれば、考えるのは母ちゃんで
自分が力仕事と
夫婦でできる楽しいことになっただろう
と思います
相変わらず
動きまわっていないと
ダメな状態です
頑張っているからね
それでは

 2016年(平成28年)3月22日(火)
ふーっやっとここにくることができた
裕子さん
4年と9ヶ月が過ぎました
東日本大震災が3月11日で5年経ちました
あの日病院で話したこと
今でも思い出します
地震大嫌いな裕子さん
看護婦さんに抱きついた
と話してたね
病院の窓から大きく手を振る姿も忘れられない
あれから5年経っても被災者の
復興が遅れているんだ
オリンピック、オリンピック
より
最優先にやることだろう
多くの人が思っているのに
それができない
ほんとうに腹の立つことが多いんだよ
益々独り言が増えている

二人分を一人で
精一杯生きています
ハワイに友人ができたんだ
その人から誘われて
駅伝に参加したんだよ
宿舎はビーチ近くで
安くて相部屋
旅慣れないときっと我慢できない環境かもね
一人での旅も慣れて
安くて長く滞在となると決まってくる
夫婦連れが似合うハワイに一緒に行きたかったぁ

次は頭を「科学博物館」に切り替えて
勉強します。
 
 2016年(平成28年)2月23日(火)
裕子さん
4年と8ヶ月が過ぎました。
20日にはここに来ようとしているのだけれど
本当に毎日が慌ただしくて
やっとくることができました
頑張っているねとほめてもらいたいぐらい
精一杯生きています

世の中がおかしくなってきてね
一生懸命働いても
普通の生活ができない状態の人
が多くなってきた
特に由貴が働いている介護の現場は大変なことになっているよ
世の中がおかしい
政治がおかしい
残された人生
少しでも世のため人のため
そして自分のため
に時間を使いたい
今週は長崎に
行ってきます
新婚の時かな
研修もかねて
長崎に行ったことを
思い出しています

もう寝る時間だけど明日の準備が終わっていない!
あーあのため息ばかりだよ
母ちゃん助けてくれ
またくる!
 2016年(平成28年)1月20日(水)
裕子さん
4年と7ヶ月が過ぎました
こちらは寒くて寒くて
先週また沖縄に行ってきました
暖かいのは有り難いね
帰宅して外出するのが億劫になるくらい寒いよ
土曜日は雪が降るかもと天気予報は
報じています
そちらはどうですか

1月から何か忙しくて
ゆとりなしです
やりたいことを最優先に
日程が重ならない限り入れていくと
どんどん埋まってしまいます
それでもいいと思っているんだ
体調を崩して発熱でもすれば
ストップ
何か病気になればストップしなければ
ならないから

とにかく
活発に動いているから
うちに帰るといっぱい聞いてもらいたい
話があるけれど
シーンとしている
これがちょっときついね
だからこの頃
独り言が多くなった
よく電車の中で独り言話している人
見かけるけど
寂しい人なんだね

今年も何とか
元気にスタートできたから
家の管理と身の回りのことは
きちんとやるようにするね
そちらから
見ててね
またきます。
2015年(平成27年)12月20日(火)
裕子さん
4年と6ヶ月が過ぎました
最近夢にはっきり裕子さんが登場したよ
「父ちゃん何してるの、そんなところで。」
「おー母ちゃん!」
と近づいたところで終わった

 1年も終わろうとしているけれど
今年は裕子さんのお母さん
そして
一光さんが亡くなられました
見舞いに行ったときのことが思い出されます
まだ気がしっかりしていたときは
悲しみを共有できる唯一の人でした

一光さんの
優しい声が今でも耳に響いています

この2週間沖縄一人旅してきたよ
懐かしい
おもろまちの
ホテル法華クラブ
泊まっているわけでないのに
行ってみた
思い出の場所だ
沖縄は温かく
体にはやさしくて
冬場は出来るだけ長くいたいね
昨年も辺野古の大浦湾に行ったけど
今回はあの美しい大浦湾に
似合わないボーリングのための重機
立ち入り禁止区域と言ってブイが広大なエリアを
囲んでいたよ
母ちゃんが絵を描きたくなる風景が
壊されようとしています
地元の人達が命をかけて
その動きを止めようと
毎日のように頑張っています
悲しいことだよね
母ちゃんといっぱい話すことがあるのに
話せないことが
辛いです
一方的にだけれど
ホームページで
レポートしているから
読んでね

由貴も聡美も元気で「
頑張っています
年末は
3人そろって
餃子をつくり、年を越せそうです
正月はおじちゃんも一緒に
行くからね

そちらでは今年は
お母さんも加わり話がはずむかな

それでは
また
2015年(平成27年)11月23日(火)
裕子さん
4年と5ヶ月が過ぎました
昨日はねぇ
飲み会で3次会まで行ってしまった
回復中だけれど、また自己嫌悪
に陥っている

とことんつきあおう
という人たちと
出会ったよ
その中に
奥戸中学校で一緒に勤務した仲間で
自分と同じく
奥さんを亡くされた人と
お話しできた
「想いはいつまでも消えないよ、
抱えていくしかないんじゃない」
といってくれた。

本当に凄腕の若いミュージシャンに囲まれ
リードする同じ年齢の友人を
みて大きな刺激を受けた
そして
その若者達とも
いろいろ
交流ができた
のがうれしかったよ
元奥戸中学校の教師だったことが
大きな「宝物」
だね。

もうすぐ
また1年が過ぎようとしている
話はいっぱいある
けど
かあちゃんに「えっ」と驚くこと
自分が土いじりを始めたこと
裕子さんの友人に
家庭菜園でプロ級の技術を
もった人いたよね
夫婦二人で農作業しているのを
自分のまわりで見ると
本当に羨ましく思う
自分は裕子さんが計画して
自分は黙々と力仕事
それなら家庭菜園もいいかな
と思っていたけど
一人になって
土には近づかなかった
でも草取りとか手入れが大変で
あのゆずの木を切ってしまったよ
するとそこにちょうどよい
スペースができた
わかるよね

家庭菜園は自分には重たすぎるし
他のことで時間を過ごしたいし
そこで
そこを花壇にすればと
デーツーの店員さんに聞いて
「パンジー」をたくさん買って
鍬、スコップも買って
少し耕して植えてみたよ
そしたら結構きれいで
自分が眺めるのが楽しくなってきたんだ
そして
近所の奥さんが
「きれいになりましたね!」て褒めてくれた
続かないかもしれないけど
努力してみるよ
小さい花が次から次へと
咲いていくのが楽しみになってきた

いつものようにサザンカも
きれいな花をつけてきたよ

それと
うちのまわりの
環境が
少し変わりそう
明後日に
うちのすぐ近くから
常磐線を越える道路が開通するよ
そこから
つくば山、富士山が見える
まだあるけど
この辺で
止めるね

庭のパンジー見ておいてね。



2015年(平成27年)10月20日(火)
裕子さん
4年と4ヶ月が過ぎました
昨日38度発熱し食欲なく寝込んでしまいました
心当たりがある発熱です。
10月前半頑張りすぎました

食欲がないとき
アイスクリームが食べたいと思いました
裕子さんが辛いとき
アイスクリームをほしがり
売店のアイスクリームを
大量に買い占めたことを思い出しました
これから
一人暮らしの非常事態(病気)
にアイスクリーム、梅干し、ミカン
など高熱のときに食べたくなるものも
そろえておかなければと思いました
フラフラしていても
歩くことができれば自力でも回復できる
そのため人に頼らない
食料も準備しておかなくてはならないね
裕子さんがいればなぁ
というつぶやきたくなるけど
もうそこから抜け出さなくてはと思います
でも由貴・聡美には「体調崩した!」
と連絡しました
二人が近くにいるように
声をかけてくれたから
それだけで
回復していくような気がします
家族というのは
このようなとき
支え合えるようにしたい

幸いにも
今ここで書けるくらいに
気分がよくなってきました
時間ごとに
回復へ向かっているようです
まだ
元気に
生きていける
見ていてね! 
2015年(平成27年)9月24日(木)
裕子さん
4年と3ヶ月が過ぎました
ここに来るのが遅くなりました
 裕子さんに
大事な報告です
我が家にも何回もきて裕子さんも由貴も聡美も大好きだった
一光さんが亡くなりました
病院への泊まり込んでの
看病もむなしく、、
68歳でした
裕子さんが病気の時も励ましてくれました
1年ちょっと前
「裕子さんの絵を見る会」にも来てくれました
お見舞いに行った矢先でした

9月20日から昨日まで
連休でお墓参りも
いくつもりでいましたが
いけませんでした

予定通りに
進むことが貴重に思えます
「命」を吸いとられるような
連休でした
落ち着いたら
お墓に
いくからね
ちょっと疲れました
 
2015年(平成27年)8月20日(木)
裕子さん
4年2ヶ月が過ぎました。
お母さんの新盆もすましました
そちらでは三人で笑いながら
私達を見守っていると信じます
暑い暑いと毎日過ごしていたら
今,外では蛙の鳴き声から
秋の虫たちの
きれいな鳴き声がすこしずつ
大きくなってきています

今日は久しぶりに世田谷に行って来ました
懐かしい世田谷区民会館,区役所
渋谷のバスターミナル
玉川線(タマデン)
が道路になったのも
昔話になりました
裕子さんと
世田谷,目黒,品川,新宿
を歩きたかったなぁ
お年寄りの
ご夫婦はきっと
時間ができた
今ゆっくり振り返る
(旅)が楽しみになるのかな
と思います
それができない自分は
何をやっても
空虚感が
のこります

ランニング
音楽
科学

でその
空虚感を
埋めようと
忙しくしています

またきます。 
2015年(平成27年)7月20日(火)
裕子さん
あの日から4年1ヶ月が過ぎました
梅雨が明け今日も大変な暑さで
水の事故
熱中症での犠牲が報じられています
自分の体調は良好で
明日から富士山登山にいくんだよ
裕子さんとの初デートで富士五合目までいったね
あのときのお互いに若い時の写真
今でも飾っています
2泊3日のツアーに参加します
登山は久しぶりだし
緊張しています
2013年(平成25年)6月22日に
世界遺産に登録されたんだよ
凄い人らしいけれど人生終わる前に1度は
と思っていたから夢の実現ということになるね
日本では天国に一番近いところだから
見守っていて下さい

世の中が少しおかしくなってきた
先日,久しぶりに
国会周辺の集会に参加してきたよ
若いとき
よくいったものだけれど
大分雰囲気は違っている
自分のように個人で参加している
人も多かった
今安倍さんという人が首相なんだけれど
とんでもないことを強行しようと
しているんだよ
日本の平和の「土台」である
憲法をないがしろに
した法案を通そうとしている

ちょっとかたい話になったけれど
元気にやっているから
由貴・聡美も元気に働いているよ
お盆を楽しみにしているから
還ってきてね!
 
2015年(平成27年)6月20日(土)
裕子さん
あの日から4年経ちました
今日は裕子さんも知っている
とっしーさんのお父様がお世話になっている
施設で親父バンド「ゆい」のライブを
やりまし。このような施設でのライブ
久しぶりでした
ちょっと前まで裕子さんのお母さんが
お世話になった
施設を思い出し
お一人お一人のお婆ちゃんの
お顔がお母さんとダブってしまいました
皆人生の苦楽を乗り越え
今ここにいる
歌だけでない交流ができました
「ゆい」の皆で
一生懸命盛り上げました
「よかった!」といってくれました

お父さん、お母さんと裕子さん
天国で久しぶりに再会し
水入らずで
私たちを見守ってくれていると
信じています

4年という年月は
あっという間に過ぎたように思います
月日が経てば
記憶も薄れ少し楽になるのかと思いましたが
その記憶は益々鮮明になるようです
若くして人生を終えた人の
無念さ
裕子さんの思いが
よみがえり
つらいです 

幸いにも
由貴・聡美そして自分は
この4年の間
独り立ちして生きることができました
妻に先立たれて生活のリズムが
狂ってしまい、お酒に気を紛らす
という
こともありがちと聞きました
自分は何とか350ccの缶ビール1本ぐらいで
おさまっています

裕子さんの分も生きる
「二人分を一人で!」
を改めて決意しました。
天国で
見ていてください!!
 
2015年(平成27年)5月20日(水) 
裕子さん
3年と11ヶ月です。
また1つ年をとりました
不覚にも片付け中
重い物を動かしたときいやな感じで
ときが経つとともに
腰の痛みが増してきました
寝返りもきつく夜も眠れないほどになりました
初めての腰痛です
自慢の腰でしたが
いきなり歩行も困難な事態に
一人暮らしの心細さが
身に染みます
「痛い痛い」と言うことを
「大丈夫?」といってくれる人が
そばにいない。母ちゃんがいてくれたらなぁ
とおもったよ
それでも身の回りのことをやらねばならない
いく末の厳しい環境を想定して
心構えをしなさいという
警告と受け取りました

由貴・聡美が来てくれて
いろいろやってくれました
幸いに回復に向かっているので
安心してね

そんなとき
地域の民生委員の方が
「高齢者台帳」に登録するから
と書類をもって来られました
そうだよね、もう立派な高齢者なんだね
まわりの若い元気な人たちと
いるとその気になっていられる
でも自覚をしなければだね
まだまだ
ダメだね

そうだ由貴聡美が
プレゼントに
衣類を買ってくれた
頼りのコーディネーターがいないから
ありがたいね
また元気な
話ができるよう頑張るから
見ていてね!
2015年(平成27年)4月20日(月)
裕子さん
3年と10ヶ月が過ぎました
田んぼに水が入りカエルの「合唱」ケロケロが日増しに
元気よく響いています
周辺の田んぼが駐車場になったり
新しい道路ができてきて
それが開通するのも間近のようです

さくら桜と毎日のように
報じられた季節も通り過ぎました
裕子さんと最後に見た桜は
病院でしたね
近くが桜の名所
病院の帰り花見客がにぎあうなか
これからどうなってしまうのか
不安と心配で
桜の下を
歩いていました
そんな思いでとさくらはつながっています
まだ素直に桜をきれいと見ることはできません

家族で夫婦で桜を楽しんでいる人を
みるとうらやましい

ごめんごめんちょっとぐちになってしまった

昨日たまたまテレビを見てたら
美空ひばりの
特集をやっていた
今聴いても
心に響く歌が多いね
しかし今までとなんか違う感情がこみ上げてきた
美空ひばりも
52歳で無念の他界だった
つらかっただろう

ちょっと暗い感じになってしまったね
由貴も聡美も
元気に頑張っているよ

そうだ
科学博物館でのフロアーテスト
7つのフロアー合格したよ
あと3フロアーにむけ勉強している
10フロアーもやる人は
父ちゃんだけみたい
凄いでしょう
またくるから
 
2015年(平成27年)3月23日(月) 
裕子さん
3年と9ヶ月が過ぎました
お母さんが旅たって四十九日がたちました
お母さんに会えましたか

3月11日東日本大震災がおきて4年目ということで
被災地のことがマスコミでは大きく取り上げられていました
もうすぐ4年経過するのか
と3月から6月までの裕子さんのことが思い出されます
被災地の人の喪失感と自分の喪失感は比較できないけれど
その悲しみは共有できるような気がします

昨日は我が家にお客さんが来てくれました
その日を目標にして
少し家をきれいにしようと努力しました
床にもワックスかけたりして
気持ちよくお客さんを迎えることができました
我が家の最高のおもてなしは「餃子」だったね
なんと2sの強力粉で300個近く
作ったよ
由貴も聡美も来てくれて
手伝ってくれました
そしてお客さんとも交流できました
裕子さんの代わりをやってくれました
うれしかったよ
そして
餃子がおいしいと言ってくれました
裕子さんにも食べさせたいね
 2015年(平成27年)2月22日(日)
裕子さん
3年と8ヶ月が過ぎました
この1か月いろいろなことがありました
寒さも加わりランナーらしくなく
外に出るのが億劫になり
家の中ですることで
1日が過ぎていきます
引き続き科学の勉強は最優先で進めています
2回目のテスト○だった!
「生き物たちの日本列島」のフロアー
知らなかったことも多くて楽しかったよ
本当に裕子さんに
説明したい。
一つ一つの生き物たちに
人よりも長い長い歴史があるんだね
何億年前とか何万年前とか
のスケールのはなしに慣れると
人の生きる時間あっというまだね

みんな元気でやっています
またくるから
 2015年(平成27年)2月2日(月)
裕子さんに報告します
1月31日、裕子さんのお母さんの人生最期の日となりました。
みんなで応援しみとどけました
2月6日に裕子さんのところへ旅立ちます
お母さんにも裕子さんによろしくと言っておきました。
裕子さんがいなくなった悲しみを
深く共有できる唯一の存在でした
お別れを前に空虚な気持ちです。
裕子さんのことを思い続けた
お母さん
やっと裕子さんに会えます。
 2015年1月22日(木)
裕子さん
20日
3年と7ヶ月が過ぎました
新年を迎えました。
今日は裕子さんに
褒めてもらいたい話です
今,自分は朝起きたら
すぐに机に向かって勉強しています
受験時代を思い出します
自分でも不思議なくらい没頭しています
ランニングも音楽も
やらないで
科学博物館の研修のための勉強です
その勉強の成果を発表する
テストを初めて受けました
受験生のように
緊張しました
○でした。
これをあと10回受けます。
科学の勉強がおもしろい
裕子さん
に話したらきっといろんな質問を受け
会話がはずむだろうな
すごいでしょう!
褒めてくれる人がいないから
おじちゃんんに報告しました
頑張るよ!
見ていてね!
 2014年12月26日(金)
裕子さん
3年と6ヶ月が過ぎました。
今年から年賀状を書きません
今年2014年,最後の年賀ということにしました
裕子さんが,達筆なアナログの
年賀を書いている横で
パソコンソフトで年賀をつくっていましたね
日本の文化として
年賀状を書くことは大切なことかと思いますが
今の自分はそれをする気がしません
100枚以上書いていた年賀をやめたのに
何か忙しく追いかけられているような年末です
できるだけ物の整理片付けを
進めようと意を決して
始めても,写真が出てきたらしばし思い出に
ふけったり
思わぬところから裕子さんの教え子からの手紙が
出てきたり
「先生,必ず元気になって戻ってきてください。」
の文に泣けました。

裕子さんの残していった物も大変な量です
絵や書に関する道具も
たくさんありますね
自分もいつ人生が終わっていいように
できるだけ自分の物を減らすことを
やらねばと思います
過去のものを捨て去ることも
つらい作業だけれども
それを超えると
気持ちを前向きしてくれるような気がします

由貴も一歩前に踏み出しました
聡実も
次年度に向けて少しずつ
準備をしているようです

自分は科学の勉強がおもしろく
NAHAマラソン参加のために
沖縄に行ったのだけれど
今回は
ヤンバルクイナに会うため
沖縄の北部に滞在しました
裕子さんがきっと
絵をかきたくなるような
自然がありました
一緒に行きたかった!
それでは
またね。
2014年11月23日(日)
裕子さん
3年と5ヶ月が過ぎました
だんだん寒くなってきました
昨日長野県北部で震度6弱の大きな地震が
発生。
白馬村で大きな被害がありました
あの白馬村
裕子さんと行ったね
楽しかったけれどちょっと辛い時でもあった
 
ドイツから帰国して
3年間を振り返る時間になっています
国立科学博物館のボラティア研修が
面白くなり
博物館の展示を見ながら
科学の勉強を始めたよ
裕子さんも理科が好きだったよね
一度も科博に一緒にいくチャンスもなく
別れてしまったのが
残念です
裕子さんに科博を案内したら
きっと面白い質問をしてくるだろうな
そんなことを考えながら
科博からの課題
フロアーシナリオを作りました
日本館の5フロアー
地球館の6フロアー
のうち
2フロアー分提出すればいいのだけれど
自分は全フロアーを提出できたよ
これから一つ一つのフロアーの
リハーサルを
科博の職員がチェックするそうです
頑張っているでしょう!
ほめてくれる人がいないから

何か初めて自分の興味にしたがって勉強できているようでうれしいよ
教えることが仕事でそれなりに楽しかったけれど
じっくり学ぶと「ああそうか!」ということに
気づくことが多いんだ
そのために今は
ランニングの時間も削っているんだよ
こういう時に
裕子さんがいたらなー
とまた思うのです
ひとりごとを言いながら
やっています

由貴は今歌舞伎座で仕事
先日歌舞伎座に弟と行ってきました
由貴が担当している
中村 梅枝も見るたびに歌舞伎役者として
成長していると感じます
その役者をを由貴が支えているんだ
母ちゃんにも見せたい

聡実も多くを学び少しづつ力を
つけているようです
自分が教師になったばかりの時の
経験をいっぱい話しています
母ちゃんの話も聞きたかったなぁ
と聡実がつぶやきました

それでは、見てて!
2014年10月20日(火)
裕子さん
3年と4ヶ月が過ぎました
昨日は防災訓練で前年度会長は
防災委員なので
参加しました
何と150名近く集まったよ
夫婦で参加している人もいました
羨ましいよ

まだまだかな
買い物をしているとき
寂しさを感じます
そして
毎日食べるための準備が大変
これを裕子さんは
毎日やってくれていたんだ
できるだけ手伝ってきたと思うけれど
もっと自分が手伝えることも
あったな
と思います。

今由貴は
名古屋で仕事しています
電話の声が元気で安心したけど
近いうちに
会いに行きます
聡美も
いい経験をしています
来年度から教師として
の本格的な一歩が始まります
 
 2014年10月17日(金)
裕子さん
今日は朝からドキドキ
聡美の教職2次試験の結果発表の日でした
合格した!!!!!!
きっと心配していたでしょう
初めて2日続けて
お墓にいきました
一人で悶々と心配しているのが
辛くて,前日に
お墓で裕子さんに語りました
聞こえましたか
「母ちゃん,聡美を頼むよ!」
天気が良くて
気持ちよい風が吹いていました
気持ちが落ち着きました
午前10時発表を覚悟を決めて待ちました
合格発表もネットだよ
10時になって東京都教育委員会の該当ページを
見ると10時ちょうどに
発表画面に
聡美の受験番号は知らないから
本人からの知らせがなければわからない
けれど不合格の数が多い!
これは厳しいかと思って
祈るような気持ちで
聡美からの連絡を待ちました
ライン上に
聡美からの
合格!の連絡
泣きました
一緒にこの知らせを
聞きたかった
生まれてから今まで
多くの心配があったね
それを乗り越えて
聡美が自分の進路を切り開いてきた
裕子さんが電話口で
必死に聡美を励ましている姿を思い出しました
裕子さんのお母さんにも知らせました
「よかった!」と言ってくれたよ
お世話になった人にも
知らせました
胸に詰まっていた不安心配が
涙とともに流れていったような
気持ちになりました
見ていてね!
 2014年9月25日(木)
裕子さん
ドイツ・ベルリンにきて
1週間が過ぎました
昨日はTiergartenをゆっくり走りました。
森の中にいるようで
きっと裕子さんが絵を描きたくなるような
場所です
秋の色が少しずつ濃くなってきました
感動の風景が多くて
独り言が
多くなってきた
また
 2014年9月21日(日)
裕子さん
3年3ヶ月が過ぎました
裕子さんが好きだったヨーロッパ
にいよいよ
足を踏み出しました
まずはドイツ・ベルリンです。
観光名所でない
路地裏にも思わず立ち止まってしまう
建築物・風景
裕子さんがその感動の声を上げるのが
聞こえるようです
こういう時一人旅がむなしいです
一人で「凄いな!」とか感動を口走っています
ベルリンも世界史的にも興味のある
場所だね
裕子さんと一緒なら
話しが弾むだろうな

毎日その記録をホームページで書いているから
見てね
 2014年8月20日(水)
裕子さん
3年2ヶ月になりました。
この夏は異常に暑く連日熱中症による被害が
報じられています
高齢になると一日一日生きていくことが
大変になってきます。
幸い裕子さんのお陰で
現役の時からランニングで大量の汗を
流し大量の水を飲む習慣があるので
乗り越えられます

この日曜に
中国から帰国しました
何のために行ったと思う
自分の生地を訪問するためだよ
裕子さんは東京生まれ
だったよね
二人でゆっくり自分の生まれた場所を巡る
こともやりたかった!
きっと話しが尽きないだろうね

裕子さんの出身の品川区後地小学校
を見つけそこから
自分の出身世田谷区駒繋小学校
まで歩いた
意外近かったこと
もわかった
もっともっと裕子さんのことも知りたかった

由貴も聡美も元気に
自分の事に一生懸命頑張っているよ
二人とも三十路に近づいてきた
けれど
焦らずに生きています。
それではまた。
 
 2014年7月23日(水)
裕子さん
3年1ヶ月が過ぎました。
一昨日
聡美と裕子さんの母さんの
見舞いに行きました
聡美がいくと元気になります
孫の力は「ばあちゃん」には大きいね
孫のいる同年代の人から必ず孫の自慢を聞くことが
多いです

今日は由貴の仕事場
大阪にきています
ハワイ滞在後久しぶりに由貴と会いました
楽屋入り口で由貴を待ちました
こんな時裕子さんと待つことができたら
楽しいだろうな
と思います。
まだまだ裕子さんと一緒ならきっと,,,だろうなぁ
と考えてしまいます

由貴も目が輝いていて元気
将来が心配だけれど
親としていわねばならないこと
言いました
明日も由貴と食事をします

聡美は目一杯頑張っています
正念場にきています
まじめに働く
二人
しっかり裕子さんの思いを受け継いでいます。

2014年(平成26年)6月23日
裕子さん
3年目の6月20日が過ぎました。
ハワイの旅どうですか。裕子さんが見守っている
一緒にいると思うだけで
頑張れます
ハワイは19時間遅れです
だから6月19日に
3年目の儀式をしました
できるだけ人のいない
静かな海岸を選びました

温かく体にやさしい気候
ハワイは裕子さんと一緒に来たかった場所です
日本人の
多くの夫婦連れを見かけるけども
まだ自分には「目に毒」です。

自分がハワイ滞在していること
羨ましいといってくれる人がいます
本当に羨ましがれる事なのか
自分も夫婦連れを見ると
羨ましいと一瞬思うけど
自分にはもうできないこと
だから余計に心の中の裕子さんを自覚できます
人にはできないことをどんどんやって
前へ進む
悔いを残さないようにね
見てて下さい。
もう帰国の準備に入っています
また日本に戻るよ
 
 2014年(平成26年)5月21日
裕子さん
2年と11ヶ月が過ぎました。
まず1年自分も年をとりました
裕子ちゃんがいなくなってから
人生いつ終わってもいいように
自分の人生を終わる予定の日を
入れることにしました
その日までに
やりたいことをやる
裕子ちゃんの辛い経験が
おしえてくれました

うれしかった事
由貴聡美から
誕生祝いをもらった
家ではあまりプレゼントはやらなかったね
少しはそのようなゆとりが出てきたのか
うれしかった
それがセンスのよい
上着3枚
早速コンサートで着ました
裕子ちゃんがいつも
コーディネートしてくれていたので
安心していたけれど
全部一人でやらなければならない
だからこの頃娘に見てもらっている

失敗
ひどい飲み過ぎ
危ない飲み方
二日酔い
このむなしさ
教え子と飲んだ,特別にうれしい気持ちになり
若者と同じペースで大量に飲んでしまった
「飲み過ぎた。」「馬鹿ね,だからいったじゃない。」
そんな会話欲しいよなぁ
1日食事もできず
辛かった
ひとりもの
はこんな時心細いね
もうこりごり
飲み過ぎない
明日はMさんとだから
飲み過ぎないけれど
飲むことにしているよ

もうすぐ旅に出ます
そちらの準備は
いいですか
今度はハワイだよ
楽しみにしているよ
 2014年(平成26年)4月24日
裕子さん
2年と10ヶ月が過ぎました
今福島に来ています
福島にも一緒に来たことがあるね
2011年(平成23年)3月11日,大震災の様子が
毎日のようにテレビで
流された
その大変な災害の中で
多くの人達の命が失われ
残された人の悲しみが連日
報じられた
そんな報道を聞きながら
裕子さんの容体も日ごとに悪くなり
どうしようもない苦悩を
自分の中に抱えていた
今多くの人の命が失われ
多くの人達の苦悩が聞こえてくるような
場所に立っています。
津波だけでなく原子力発電の事故により
福島の被災地は終わりの見えない
苦悩の中に多くの人々がいます
裕子さんの無念の思いを
福島の被災した人々と共有
することができるような
気がします
民宿のご主人と
そこで働く若者と
共感する自分がいました

由貴も聡美も元気に働いています
二人とも30歳に近づいてきたけれど
なかなか出会いがないようです
それも心配だけれど
相手が現れたら
それも心配になるだろうなぁ
たよりの母ちゃんがいないからなぁ
見守っていてね。
  2014年(平成26年)3月20日
裕子さん
2年と9ヶ月が過ぎました
昨日韓国の旅から帰ってきました
「ただいま!」と玄関を開けた瞬間が何とも寂しい
二人で韓国に行けたなら
どんなにか楽しかっただろう
歴史,文化,食べ物,等々
きっと裕子さんとの会話は途切れることがないだろう
由貴が韓国に修学旅行に行ったんだよね
話しが弾みそうだ
3月11日東日本大震災から3年が過ぎました
あの日裕子さんは入院していたね
自分は病院の近くに職場があった
昼休み毎日自転車で会いにいった
あの地震が起きたとき看護婦さんに抱きついた
と言っていたね
地震を一番怖がっていた
そしてその6月裕子さんは天国に行きました
だから東日本大震災の被災された人の
悲しみと自分の悲しみが重なります
大きな喪失感は薄れるどころか
深まっています

うれしい報告するね
由貴も今京都で歌舞伎の仕事を元気にやっています
あの寮母さんと頻繁に会っているみたいです
聡美は
教育委員会から連絡あり昨日面接
採用が決まった!
学校現場にこの4月から
いよいよ就職できるよ
うれしいね!!
やる気でいるから
楽しみです。
明日は春分の日
お墓参りいくから
それでは。
 2014年(平成26年)2月20日
裕子さん
2年と8ヶ月過ぎました
今京都からのアクセスです
裕子さんは
京都検定にも合格し京都について興味と
知識は人一倍でした
「京都は一日1寺。」といっていましたね
そんな京都巡りを
一緒にできることが夢に終わりました
京都マラソンのためにきましたが
現役の時と違い
マラソンだけでない京都巡りを
しています
京都マラソンコースを利用して
東大路通り西大路通り等道を覚えていくと
京都市内の地理に詳しくなってきました
7つの世界遺産がそのコース上にあるんだよ。
それに由貴の進路のため訪れた
大学もコース沿いにありました
家族で訪問したあの時のことが
思い出され泣けました
滋賀県の大津にも行ったんだ
10分くらいでいけるんだよ
琵琶湖も魅力的でした
「いいなぁ父ちゃん,そんな事ができて。」
と言う声が聞こえてきそうです
いつも一緒だから
大丈夫

 2014年(平成26年)1月24日(金)
裕子さん
新しい年になりました
2年と7ヶ月過ぎました
由貴も聡美も仕事で忙しく連絡も少なくなり
完全な一人暮らしの生活が
続いています
少しでも前に進むために
大きな片付けを断行しました
マンション生活の時に購入したあの革製の
ソファーを粗大ゴミに出しました
せめて写真をとり
お別れしました。
思い出が染みついているものです
こたつも出しているけれど
由貴聡美がくるために
セットしているだけです
はいる気にもなりません
一人暮らしのための環境が少しずつ整ってきました
聡美が手伝ってくれて
食器,台所用品なども片付けました
ゴミに出すときの寂しさと悲しさ
でもこれを超えなければダメだと言い聞かせています
もう自分も
いつ人生が終わってもいい年になっています
裕子さんが先に行ってしまったから
この家のすべての片付けを済まさなければ
と思っています。
ただそれをすることによって
これから新たな気持ちで
生きていけるような気がします
ソファーがなくなり,寂しくなったけれど
今まで見えなかったきれいな床が
見えてきました,大きな空間ができました
そして
裕子さんの絵はほとんどそのまま
この空間が落ち着きます
片付けによって
見えなかった物がみえてくる
そして気分も変わることを体験しています

「裕子さんの作品を囲む会」
の記念写真と裕子さんの笑顔の写真を
アルバムのようにして
参加者の皆さんにお送りしました
ご友人から早速お礼のはがきが届きました
『とても素敵なアルバムで感激しました。いつまでも大切にします。実は写真が届く前日夢を見ました。いつもの優しい笑顔の裕子さんでした。そうか!と思いました。「写真が届くよ。」と伝えてくれたのですね。なんだかとても裕子さんらしくて胸がいっぱいになりました。これからも裕子さんは大切な友人として私の心の中にもずっと生き続けてくれます。,,,』
 2013年(平成25年)12月23日(月)
裕子さん
2年と6ヶ月過ぎました。
これからの季節が辛かったですね
日々刻々不安との闘い
まだまだそのことが鮮明で辛いです
今日は楽走会の仲間との望年会でした
裕子さんに話せないストレスか
会長という立場をかりて
しゃべり過ぎました
いつも終わった後反省です
12月もどんどん月日を重ねていきます
ことしは自宅での年越しです
由貴と聡美と家族で年を越せることが
ありがたいです
先週,久しぶりに京都に行きました
由貴の仕事が京都の南座
中村梅子,萬太郎の歌舞伎を見るためです
由貴も一人ホテル暮らしだけれど
顔もスッキリとして仕事が楽しそうです
母ちゃんがいたらどんなことを由貴に言うのかな
きっと裕子さんが想像もつかない職業です
お陰で歌舞伎が自分にとって
大きな楽しみになりました
聡美は友人に会いに
北海道に飛んだり
友人の結婚式で九州に飛んだり
相変わらずアクティブな生活で
生き生きとしています
年末の片付けなど
由貴は仕事でギリギリまで返って来れないけれど
聡美が帰ってくれて
大掃除もできそうです
自分も
捨てきれない物が多くていつも捜し物
こんな生活から抜け出すために
少し努力します
裕子さんが感心するぐらいの
生活の改善を考えています
楽しみにみていてね!
それではまた!!
2013年(平成25年)11月28日(木)
裕子さん
20日2年と5ヶ月でした。
8月に話しがあり11月24日(日)に開催された「裕子さんの作品を囲む会」が当初予定していた少人数の集まり
のつもりが
34人もの参加者でした。
口々に裕子さんの思い出を語る人達の話に
じわじわと涙が流れ続けました
由貴聡美も母親としての裕子さんでなく
働く女性として,その人格などを
再認識しこれからの生きる励みになったのではと
思います。
11月は
この準備に全力を尽くしました
その中で裕子さんの作品絵画,陶器等をじっくり
と見る時間をとることができました。
最初は2つの絵を額装して見たら
裕子さんの絵はより素晴らしいものになりました。
我が家を会場にしての「個展」
限られたスペースにいかに多くの作品を
展示するか工夫しました
その結果20以上の作品を新たに額装し
来られた方が画廊のようだと
驚いていました
忙しい現役の時にあれだけの絵を描いていた
幼少の頃から絵が好きだった
裕子さん
きっと絵を描くことで大きな生きる力を
得ていたのだと思いました
そして
あの絵を額装することも
絵を描いた人にとっては,大きな喜びなのではないか
と思いました
その最後の喜びを
父ちゃんがやりました。
裕子さんとの共同作業のような気がして
ヘトヘトに疲れたけれど
いい時間を過ごすことができました
絵を残してくれてありがとう
これから
絵に囲まれた生活を
していきます。
しばらく待ってね。
写真を見せるからね。 
2013年(平成25年)10月23日(水)
裕子さん
今月もやっとこのページに来ることができました
2年と4ヶ月が過ぎました
今大阪にいます
由貴が支えている
歌舞伎役者中村萬太郎が大阪松竹座に出演
一時大阪滞在の由貴に会いに来ています
由貴のお陰で歌舞伎もこれで何回見ることになるかな
日本の伝統芸術のすばらしさ
それを伝えようとしている人達の苦労など
見聞する機会があって
由貴もいい仕事をしている
と誇りに思います
トイレに並ぶ女性の列
圧倒的に女性そして年配の方
裕子さんと一緒に来ることができたら
どんなにか楽しいだろう
母ちゃんと歌舞伎の話し
そして由貴の働きぶりなどを話しながら
大阪の「食」を楽しめたらなぁ
そんなことを想像しています
聡美も頑張っているよ
二次試験で期限付き採用という分野で合格
大きく教職の道が開かれました
民間に勤務した後,教職免許取得,教育実習
塾での仕事などを見ていると
聡美のような人が教師になってほしいと
思っていました
自分の娘だから希望通りになって欲しいことは
もちろんだけれど
自分も裕子さんも東京都の
教師として頑張りました
聡美に自分の経験,「母ちゃん」の経験も話してあげることが
できると言うことが
大変うれしい
裕子ちゃんと
喜び
そして
これからの心配も
分かち合いたい
それができないことが
悔しい,つらい

妻を失い夫を失った人
でなければわからない心情
自分はここの場で
裕子さんに語っているけれど
同じ思いの人達が語り合える場
を見つけました
メールでのやりとりだけれど
日本全国で同じような
苦悩を体験している人の
話しを聞くだけで
楽になります。

それでは,この辺で
また!
 
 2013年(平成25年)9月26日(木)
裕子さん
やっとこのページにきました
2年3ヶ月,そして裕子さんが生誕して57年が 過ぎました
帰国以来,自治会の会長職
ランニング,音楽活動,科博でのボランティア
と結構日程が立て込んで,頑張っています
でも自治会の会長として
今までにない取り組みをしています
会議を終えて真っ暗な自宅に帰ると
無性に寂しさを感じます
裕子ちゃんがいたら
話を聞いてくれて
「父ちゃん頑張ったね。」と言ってくれるだろう
今妙高高原の宿にいます
きっと裕子さんが好きな旅館です
夫婦連れが多い安いツアーに参加しました
海外から帰国後の
一人旅です
大きな旅行で寂しさを紛らし
しばし
落ち着いて毎日の一人暮らしをすることを
経験しています
毎日同じ繰り返し
食事を作り,洗濯をして
掃除をして
その繰り返し
一人暮らしが慣れてきました
でも日常から離れる
旅に出ると
裕子さんと一緒を感じます
一人だけれど
一人でない
65歳人生の区切りと考えています
今まで経験したことのない
ことに挑戦しています
悔いの残らない人生
これを目指します
裕子さん
見ててね! 
 2013年(平成25年)8月28日(水)
2年2ヶ月が過ぎました
無事に帰国しました。
帰国しても
自治会の会長さんの仕事が待っていました
大量の郵便物の整理
そして仲間との遊びの打ち合わせと
猛暑の8月忙しく過ぎていきます
先週体調を崩し苦しい思いをしました
母ちゃんがいるときもあったこと
一人暮らしのつらいところです
母ちゃんがいればなぁ
昨日は夜走りました
夫婦連れで散歩している
人を見かけました
自分ももっと裕子さんと一緒に歩けば良かった
自分が52歳でランニングを始め
それをいつも助けてくれた
だから続けられた
でもランニングしていなければ
もっと裕子さんと一緒に歩くことができたはずだ
と考えるとむなしい
完全後ろ向きだね

うれしい話
聡美が東京都の教職試験一次に合格したよ
大変な難関だった!
教職免許を取るため2年間頑張った
その間母さんの苦しいつらい闘病があった
本当に母ちゃんと思い切りほめてあげたいね
二次試験はなかなか厳しかったようです
でも自分の生き方が定まったようで
少し安心しました
裕子さんと聡美の成長をたどり
「よかったね」の声を聞きたい

由貴は歌舞伎の世界で仕事について
もうすぐ1年になります
おかみさんからもまじめな仕事ぶり
俳優さんからも頼りにされているようです
不器用な由貴も心配したよね
母親としてきついときもあったと思う
由貴の成長をたどり
「よかったね」の声を聞きたい

裕子さんと親しくしてくれた方達が
明日来宅します
裕子さんの描いた絵を
皆さんに見てもらいたい
と相談したら
裕子さんの絵を囲んで裕子さんを
偲ぶ会のような企画を考えてくれることになりました
皆さんが裕子さんと過ごした時間を
いまだに思い出すと言います
ありがたいこととして
受け入れたいと思います
派手でない裕子ちゃんらしい会に
していくからね

暑さも少しずつ和らぎ
日ごとに虫の音が大きくなってきます
何をやっても最後に残るのは
寂しさです
とにかく
動きを止めないで紛らすこと
裕子さん
次の旅を考え始めています
そちらでも考えて
おいてね
それでは
また
 2013年(平成25年)7月21日(日)
裕子さん
ケープタウンの生活ももうすぐで2ヶ月になります
昨日はとんでもない経験をしました
何をやるにも
裕子さんの一押しがあるから
思い切ったことができます
しかし
昨日は
「父ちゃん無理したらダメだよ。」
の声が聞こえました。
こういう時
裕子さんに直接会いたい
と思います。
これから
帰国まで,いくつかの
ハードルをクリアーしなければなりません
頼りは
裕子さんです
よろしく!
 2013年(平成25年)6月21日(水)
裕子さん
2年が経ちました。
この頃頻繁に
裕子ちゃんと一緒にいる夢を見ます
今南アフリカケープタウンにきています。
日本の自宅には
手紙花が届けられています
裕子さんと旅も一緒にした友人から
自分も未だに裕子さんとの日々が忘れられない
と書いてくれました
今日は自分にとって特別な日で
ケープタウン駅近くにある
花屋さんに花を買いに行くつもりでした
とにかくびっくりするような花屋さんです
裕子さんが絵を描きたくなるような花です
しかし今日は学校も休み外出しないで
一日中寝ていました,腰が痛くなるまで寝たのは久しぶりです
病気のつらさを体験していますが
裕子さんの闘病を思い出します
聡美がお墓に行ってくれました
由貴も元気に仕事を続けています
今日はskypeと呼ばれる
最新の通信ツールで
おじちゃん 聡美とも話すことができました
世界どこにいても
リアルタイムで直接会話することができます
「おー裕子久しぶりだね。」
と会話できること夢に見ています
2013年(平成25年)5月21日(火)
裕子さん
1年と11ヶ月が過ぎました
昨日は大雨
お墓にいきました,全然苦になりません
帰りにお母さんのお見舞いに行きました
不自由な体だけれど
よく話してくれて裕子さんの話題で
泣いたり笑ったり
裕子さんと初めてデートしたときの
富士山での写真をお母さんが大事に見ていてくれました
「還暦過ぎているのだから,無理をしないで。」
と言ってくれました

4日に3回忌も終わりました
裕子さんのお仲間も
きてくれました

バンドのイベントも終わり
大きな旅の準備で結構忙しいです
裕子さんも一緒だから頼むね
母ちゃんは要領がいいから
パッパッと準備してしまうけど
自分は相変わらずウロウロしながら準備しています
一番不安なのがどんな服着ていこうか考えること
由貴聡美がいるときは
二人がいろいろ言ってくれるのだけれど......

裕子さんがいつも一緒と考えると
何とかなる
と大きな気持ちになります
それでは
楽しみにしていてね。
 
2013年(平成25年)4月24日(水)
裕子さん
1年と10ヶ月が過ぎました
新年度の始まりは退職してからはあまり意識しないで
通り過ぎるようになってきました
二人で働いていたとき
新学期が始まる緊張感
由貴聡美の通学と張り詰めていましたね
あの頃が懐かしい
でも今年度はめまぐるしい4月になっています
自治会の会長として無理矢理引っ張り出され
その仕事で連日動かなければということもありました
裕子さんがいたらなぁ
裕子さんのバックアップがあれば楽しいものになるのに
そんな思いでやっています
ランニング音楽の時間も削られています
ゆとりがないことで遊びもうまくいかなくなってきて
裕子ちゃん!助けてくれ!

仏壇に話しかけています
つらくて最近
91歳になる住職に話を聴いてもらいました
裕子さんのご家族のことも知っているご住職
そして自分と同じような経験をしている
91歳だけどしっかりと聴いてくれる
会話が成り立つ
一休さんのような風貌
ほっと心が和みます
「あと7〜8年はかかりますよ。」
「一人でじっとしていないで旅に出なさい。」
「まわりの人がなんといおうが旅に出なさい。」
旅の好きな裕子さんとの旅はもうできない
でもマルタの旅も
いつも裕子ちゃんと一緒でした
ご住職が背中を押してくれて
これから裕子さんとの旅を体が動ける限り
続けるね
いろいろなことができるうちに
遠くへいくよ
そしてどこかで会えるかもしれない!

由貴聡美も元気に働いています
由貴は新しくなった歌舞伎座に毎日通っています
聡美はまだ不安定だけれど
教育現場に入り
先生として
一所懸命です
母さんの経験を今まで聞いてきたから
がんばれると思います
とにかくまだまだ心配だけれど
生き生きとしているから
よし!
です。
5月のはじめ皆でいくからね
 
2013年(平成25年)3月20日(水)
裕子さん
1年と9ヶ月が過ぎました 
家の外回りの山茶花が例年以上に
見事な花を咲かせています
通行人が
「すごくきれで大輪だね、この山茶花」
と立ち止まり話しているのが聞こえました
裕子さんが絵はがきに描いた
大輪の山茶花の絵を
思い出しました
裕子さんの絵が見たい

桜の開花の話題がそこら中から聞こえます
でも自分は桜を見るのが嫌です
裕子さんが辛い思いをしているとき
満開の桜並木を
暗澹とした気持ちで歩いたことが思い出されます
裕子さんが天国に行って2回目の

自分にとっては重たい春です
寂しさが
つのる春です
走るのも億劫になり
ギターも弾く気がしなかったり
いい状態ではないなと自覚しています
でも今はそれに逆らわず身を任せることにします
また前を向いて動き出す時を待ちます
ちょっと弱きの「父ちゃん」です
見ていてね。
2013年(平成25年)2月25日(月)  
 裕子さん
1年と8ヶ月が過ぎました。
20日日差しがあるけれど寒々としたお寺にいきました。
この頃一人で行くことがあるので
お墓参りの手順も慣れてきたけれど「あっ忘れた」と
水場を行ったり来たり
裕子ちゃんの笑い声が聞こえそうです。
帰国して以来会っていない遠く離れた由貴の仕事場に行ってきました
大変そうだけれど顔が生き生きしていたので安心してね
聡美も次の年度に向けて準備をしています
まだ心配だけれどしっかりと将来を見据えて
頑張っています。
由貴聡美の喜び、悩みを
母ちゃんと共有できないのが一番寂しい
でも二人ともよく話しを聞いてくれるので有難いです。
裕子さんの母さんも心配だけれどしっかりとしています
旅行の話をよく聞いてくれました。そして由貴聡美の来るのを
楽しみにしていました

3ヶ月遠く海外に行きましたね
裕子さんと一緒のつもりだから
二人分の旅行のつもりだから
周りの人が驚くような旅行ができました
一人だから
寂しいけど寂しくない旅でした
出かける前は準備とかで慌ただしかった
そしてその間に皆が自立した生活をする大きな変化がありました
でも帰国してなにかリズムが違う
そうだ完全自立の生活が始まった事に気がつきました
でも海外から帰国して
朝は起きることができない
なにか緊張感がない
裕子ちゃんのことがたくさん思い出されて
ぼーっとしている状態があります
ただ有難いことに
ランニング、音楽等々で外に出かける予定
が入ってきているので救われます
気を紛らすことができます
昨日も東京マラソン2013
の応援で一日中東京を動き回りました
あの病院の前も通りました
東京マラソンコースは自分にとって
悲しい思い出のコースです
それを心に刻み頑張るためのコースでもあると
考える事にしています。
見ていてね。
2013年(平成25年)1月20日(日) 
裕子さん
1年と7ヶ月です。
年が明けたけれど明けた気がしません
いつも家族で過ごした年末年始
今年は自分が海外で、由貴聡美は叔父ちゃんと年を越しました
自分は裕子さんと海外のつもりで
裕子ちゃんが絵を描きたくなりそうな場所をできる限り
回りこれからも回る準備の旅です
今エーゲ海に面した所に住んでいるトルコの友人の所に
泊まっています
思わぬきっかけから当初予想もしていなかった国へきています
きっと裕子ちゃんが気に入ってくれる所です
アンティークで静かきれいな海
明日から
語学学校最後の週ですが欠席して
もう少し滞在します
由貴もハードな仕事の中に生き甲斐を見いだしたようです
聡美は遠い先を見通しながら新たな挑戦をしています
自分も裕子さんに会えるまで何かに挑戦します
それでは
 2012年(平成24年)12月23日(日)
裕子さん
1年と6ヶ月が過ぎました
由貴聡美亮は
裕子さんに見守られているから
頑張っています
特に亮は自分で言うのも何だけど頑張っている
裕子さんの前だからいいよね
若者の間にいて
ふと孤独感に襲われるときがあります
なぜ自分はここにいるのだろう
そして自分を確かめてまた気を取り直しています
7週目が終わり欠席もなく無遅刻で過ごせたことに感謝します
平気で「起きることができなくて遅刻しました」と
明るい表情で入室してくる
若い日本人女性student
裕子さんどう思う
裕子さんの声が聞こえてきそうです
「父ちゃん、気にしないでいいよ」
本当に裕子さんと会いたいなぁという思いを
自分の中で「昇華」しています
私と行動を共にしてくれて息子ですかと言われた若い友人が
別れに際しこんなメッセージを
送ってくれました
good morning!
I'm glad to meet you.
I think it is important to try something new.
You always try to learn and study and challenge.
I would like to become like you.
Keep running for your health and dreams and your everything!
Thank you for everything, Ryo!

どうですか、うれしいよね裕子さん
「よかったね!」
裕子さんの声が聞こえました。
 2012年(平成24年)12月7日(金)
裕子さん
今日は5週目最後の授業が終わり
久しぶりの天気がよくて
帰りの昼は買い物をして
地中海の見えるレストランの
屋外で昼食をとりました、そして乾杯!
明日きっと裕子さんが気に入る
Mdinaという街に行きます、マルタの元首都だったところです
そのためのバスのルートなどを
食べながら調べました
そしてよし!これで行けると会計を済まして店を出ました
「あっ忘れた!」かなり経って気がつきました
買い物袋(トマト、水2リットル、牛乳1リットル、
パン、缶ビール2本、リンゴ、ティシュ、台所テイッシュ)
店員さんが確保してくれていました、ニコニコして「気をつけて。」
と言われました。
相変わらず裕子ちゃんに笑われる失敗をしています
でもあの笑い声を思い出しながら
頑張っています
今日はレベルアップできました
裕子さんの「よかったね!」
の声が聞こえました
明日の旅行楽しみにしていて
ね!
 2012年(平成24年)11月15日(木)
裕子さん
マルタの景色はどうですか。
どこの場所でも裕子さんが座って絵を描きたくなる場所でしょ。
緑は少ないけれど
地中海、青い海、白亜の建物
、巨大でありながら微細な作りをした教会
何故か落ち着きます
裕子さんが座って絵を描いているのをイメージして走っているよ。
そんなとき道ばたで絵を描いている人がいました。
振り返ってその人の顔を見てしまいました。
部屋には裕子さんの写真があります。
まだこれから
観光ルートにない路地裏をできる限り歩き走り
そして
バスを使ったり、
船を使ったりこの島を巡るから楽しみにしていてね。
スエーデンの68歳の元気な婦人が話しかけてくれます
裕子さんがフィンランドに行ったときのことを
思い出しました。
 2012年(平成24年)10月30日(火)
裕子さん
昨日お墓に行きました。
お母さんのお見舞いにも行ってきました
母さんが裕子さんの幼稚園時代の
お話をしてくれました
そのときも絵がうまくて褒められたと言っていました
本当に自分の誇りです

泣いたり笑ったりあっという間に時間がたちました

そして裕子さんと会うために旅に出ることも
言いました
二人で旅するのもいいけれど
別々にルートを違えて
決められた日にち時間に落ち合う
そして
自分の見てきた、体験したことを
話す
そんな旅もやれたらいいね
と話したこともありますね
今回裕子さんが気に入っていた国へ
行きます
そちらの準備はいいですか
お墓で話した場所で待ち合わせだよ
やっと
裕子さんの願いを実行するときがきました
皆協力してくれています
それでは
楽しみにしています。 
2012年(平成24年)10月25日(木) 
裕子さん
久しぶりに自分の部屋掃除しました
裕子さんの机もそのままになっています
埃もかぶり少しきれいにしようとしました
小さなノートに懐かしい筆跡
その中に「父ちゃんへ」と言う文字を
見つけました
誰もいなかったから
思わず号泣してしまいました
1年4ヶ月が過ぎ
だんだん寒くなってきたからなのか
ますます裕子さんが
恋しいです

由貴もその後頑張っています
明日が御園座最後の公演です

聡美も頑張っています今日
教育実習での研究授業でした
本当に毎日熱心に生徒の様子
授業をどうしようかと考える
聡美がかわいいです
教師になってほしい
実習生です
それではまた
2012年(平成24年)10月19日(金)
裕子さん
今日は由貴の職場を見てきました
親ばかと言われるかもしれないけれど
心配だよね
母ちゃん!その仕事場は
驚かないでね
名古屋の御園座、歌舞伎の「世界」です
今由貴と食事をしてわかれました
すっきりとしたいい顔していました
午前と午後通して見ました
長時間にわたる公演
感動しました
関係者の人が由貴の働きぶりを
よく頑張って働き助かっています
と言うことでした
芸術の仕事に携わりたいと
転職してまだ1ヶ月もたたないけれど
まじめな人たちに囲まれ
由貴のまじめさが
評価されているようで
ひとまず安心しました
そして思いました
裕子さんと来れたら
どれだけ楽しかっただろう


明日行くからね
2012年(平成24年)10月16日(火) 
裕子さん
今日は秋晴れの気持ちよい天気でした
7月1日から始まった利根川楽走会の退職記念行事も無事終了しました
自分は最初から最後まで参加できました

「よかったね」の裕子さんの声が聞こえました
歩けて走れて元気な人たちで河川敷は
いっぱいでした

今思うのは裕子さんともっと歩きたかったことです

翌日
多磨霊園で挙行された第55回追悼式に参列してきました
東京の子供たちへの教育に貢献したと言うことで
名前が刻まれました

9月から始まった新しい生活
みんな頑張っています
聡美が教育実習で毎日話題がいっぱいです
話を聞くのが楽しみです
自分が今生徒の前で話すことがハラハラのようですが
少しずつ生徒の心をつかんでいるようです
母さんに聞かしたらどんな話をしてくれるだろう
裕子さんの残してくれた中に
教育実習のノートがありました
びっちりと書いてありました
その変わらぬ懐かしい筆跡を見ると
泣けてきます

由貴はまた
ハラハラの毎日
忙しくて新しい仕事を覚えるため
メールの返事も来ないときがあり
心配したけれど
でも元気な声の電話で
何とか頑張っているようです
母さんが聞いたら
「由貴頑張れ!それじゃーねバイビー。」
と電話を切るだろうな
そんなことを想像します
もうすぐ20日がきます
行くからね
 2012年(平成24年)10月1日(月)
裕子さん
猛烈な台風で家がミシミシいいました
この時間が裕子さんと静かに向き合うときです
それがなかなかとれませんでした
9月に1年3カ月が過ぎ、そして裕子さんの生誕記念日もありました。
いっぱい語りたいことがあります。
9月沖縄から帰り、新しい生活が始まりました。「母ちゃん」を頼りにしてきた3人は寂しい思いを胸に秘めながら
何とか生きてきました。母ちゃんを心の支えにして、1人1人が自分のことはすべてやれるように自立しなければと話し合い
新しい生活をスタートさせました。自分が一番大変かな。
とにかく寂しくて忙しくて
自分一人で食べてかたづけて洗濯して干して
買い物して
そして走って音楽してボランティアして仕事して
9月はめいっぱいでした
やっと裕子さんに話す時間がとれたと思ったら
10月に入ってしまいました
今日は聡美が教育実習の初日
昨日から緊張していました
全校生徒の前で話すのが大変なようです
自分の経験を子供に伝えられることはうれしい
「この体育館は私がバレー部で汗を流した思い出の場所です。」
と言ったらどうかなぁ
とか自分がその気になっているようでおかしいです
現役時代のいろんな場面が思い出されました
裕子さんがいたらなぁ
「母さん」がきっと喜んでいるよ
と送り出しました

由貴も「母さん」が驚くようなそしてきっと笑って
「由貴がんばれ!」と言ってくれる
仕事に今専念しています
天国から見えるでしょう

裕子さんのお母さんに会いに行きました
「亮さんと話していると裕ちゃんを感じるのだと思います。」
お母さんが喜んでいた
と姉さんからお礼のメールをいただきました。
母さんと自分は今一番気持ちがわかり合える人だと思いました
子供を失い
妻を失い
その喪失感は誰も埋めることはできない
でも母さんと話しているとき
自分も
裕子さんを感じているように思います
そしてお母さんも「りょうさん」のことを心配してくれている
ことが伝わりました泣けました

裕子さんは自分の中に
生きている
ことを感じます
 2012年(平成24年)9月5日(水)
裕子さん
沖縄に来ています
一緒に歩いた
琉球大構内
入学式
卒業式
のあのときを
思いながら
何度も何度も
同じ道を
走りました
今日
帰ります。
 2012年(平成24年)8月28日(火)
裕子さん
25、26日と利根川楽走会の清里高地合宿に行ってきました。
裕子ちゃんと午前3時起きて首都高速を1時間で通り過ぎ
あの清泉寮に7時前に到着
二人であのまだつゆでぬれたベンチで
山々を見ながら弁当を食べ
コーヒーを飲んだ
今回12名の参加で楽しい合宿でしたが
ふと裕子さんとの思い出の場面が
脳裏に思い出され
自分の世界に閉じこもる瞬間がありました
思い出の清里
これから何度も行きたい

昨日27日
裕子さんの母さんに会いに行きました
由貴と二人で
職員の方が、「父ちゃん」が来るのを
楽しみにしているようです
と話してくれました
先日品川から世田谷まで裕子さんの出身小学校中学校から
自分の出身小学校中学校
まで走ったことを話しました
スマートフォンで地図を出しながら
裕子さんのふるさとの話に
母さんは記憶鮮明で
話がはずみました
馬事公苑 玉電 三軒茶屋 等々
懐かしい言葉がでました
裕子さんが生まれた場所
など
5時過ぎまで母さんとお話しできました
リハビリの様子も見てきました
裕子さんの面影が母さんの顔から
見てとれました
またいきます
裕子さん
安心してね
父ちゃんを
頼りにしてくれているようです
もうすぐ9月
大きく生活が変わります
また報告します
 2012年(平成24年)8月19日(日)
裕子さん
明日で1年2ヶ月が過ぎます
今日はお寺の行事に参加してきました
多くの坊さんと檀家の人が集まり
お経を読んでいました
自分もその中に混じり雰囲気になじもうとしていました

重要な報告です
三人で母ちゃん裕子ちゃんが亡くなって
悲しみを乗り越えてきました
自分が一番救われていると思います
由貴聡美はこれから大きな可能性を持っています
もっと自由に今やらなければできないこと
に挑戦してほしい
自分は早く、もう人生を終わっても悔いなし
といえるためにも
時間を惜しんで
やりたいこと
裕子さんと約束したことを
やらねばならない
三人が自立して生きていけるように
9月1日から生活を大きく変化させます
裕子さんが
応援してくれることを励みに
がんばります
2012年(平成24年)8月10日(金) 
裕子さん
今日は裕子ちゃんの出身小学校品川区立後地小学校から
荏原一中そして
自分の出身小学校世田谷区立駒繋小学校
 新星中学校(現在三宿中学校)
まで歩き、走りました。
こんなに近いところで、裕子さんと自分の幼少時代があったのか
小学校から、今は何もない元自宅まで歩きました
セミとりに夢中になった緑豊かな通学路の道は
舗装されきれいな家が建ち並んでいました
その中で昔のままの表札のある家がありました。
涙が出ました
この道を裕子さんと歩けたら
また楽しい話ができただろうな
お母さんに話します。
2012年(平成24年)8月2日(木)
裕子さん
8月に入りました
うれしい報告です
由貴が自分がやりたいこと,新しい挑戦をするために転職を決意して
実行に移しました
優柔不断な由貴がしっかりと成長しています
そしてうれしいことに
職場の人達が由貴の退職転職に際して
温かいメッセージをたくさん寄せてくれたことです
大きな花束を抱えて帰って来ました
母さんに見せると仏壇の前に置いています
ハードな仕事をまわりの人達に支えられながら
一所懸命やってきたからの結果です
由貴には自信をもって次の職場でも頑張りなさい
と励ましています
でもそう言いながらもこれで良いのかなぁ
心配だなぁ
と不安です
母ちゃんがいたらなぁ
とふと思います
でも母ちゃんもきっと同じ気持ちで応援してくれる
と言い聞かせています
大丈夫だよね
(父ちゃん!大丈夫!)の声がきこえました
よし!
 
 2012年(平成24年)7月30日(月)
裕子さん
お母さんのお見舞いに一人で行ってきました
考えて見ると
裕子さんのお母さんとお会いするときは
必ず裕子さんまたは由貴聡美と一緒でした
そして必ずお姉さんがそばにいてくれましたね
お母さんと一人で会いたくなりました
子供が先に天国へ逝かれた
お母さんの哀しみはいかばかりか
自分と一番気持ちの上で
通じる存在だと思いました
施設の方も親切に応対してくれました
裕子さんの通った小学校,中学校そして裕子ちゃんの生活した地域
一緒に歩きたかった街の写真をアルバムにして行きました
お母さんは喜んでくれました
裕子さんの写真にほおずりをしていました
たくさんお話しできました
裕子さんの幼少時代のこと,生物の観察が得意だった
絵と書が小さいときから
ほめられていた
時間も忘れてお話しできました
(後からお姉さんから,お母さんが大変喜んでいたとお礼のメールがありました。)
 
2012年(平成24年)7月27日(金) 
裕子さん
今日は猛烈な暑さです
でもクーラー使わず
扇風機で過ごしています
裕子ちゃんの首にタオルを巻いて
汗かきながら掃除をしていたことを思い出します

由貴が職場の介護施設のイベントのため絵を描いた
と見せてくれました
まわりの人にほめられたとか
由貴は小さいときから,首のないバレーリーナの絵をノートにいっぱいに
描いていたよね
絵の中に
自分の「世界」を
つくっていました
バレーリーナでない顔の表情のある由貴の絵
新鮮でした
聡美も「姉ちゃん,いいじゃない!」と言っていました
母ちゃんにも見せてあげたい
母ちゃんなら,何か言ってあげれると思うな
二人の娘に絵をたくさん描いて欲しい
家中に裕子ちゃんの絵を飾っています
娘にちゃんと伝わっています
2012年(平成24年)7月20日(金) 
裕子さん
あれから1年と1ヶ月が経ちました
今日は教育センターの仕事でした
飯田橋駅をおりるたびに
病院がよいの日々を思い出します
幸い職場に近かったから
昼休みの1時間
途中で弁当を買い
自転車で病院に疾走した日々
裕子さんに会えるから
苦になりませんでした
帰りに大きな病院の窓から
思い切り手を振っていた裕子ちゃん
目に焼き付いています

由貴聡美も元気です
毎日「父さん今日はどうだった!」と聞いてくれます
また
2012年(平成24年)7月17日(火)
裕子さん 
梅雨が明けたようです
もうすぐ1年1ヶ月経ちます
7月20日仕事が入りお墓に行けないので
今日ひとりで行きました
由貴のこと聡美のことそして自分の愚痴
聞こえましたか
お墓の前でつぶやきました
暑かったけれどそんなに苦になりませんでした
誰もいないお墓
落ち着きます
少し体調を崩し
休みました
また
 2012年(平成24年)7月12日(木)
裕子さん
思い出の高千穂に行ってきました。
深い緑と渓谷
そして大きな様々な形の橋
その自然に二人で感心したことを思い出します
この頃自分が意地悪になったのかなぁ
夫婦連れをを見ると不愉快になります
自分の妻をいつも口にする人
嫌になります
自分の幸せは心に閉まっておいて下さい
と叫びたくなります
という自分も
「うちの妻は...」と自慢していたように思います
自分も他の人の不幸も知らず,不愉快な言動をしていたのではと
振り返っています
まだ人間としての「修行」が足りませんね
「あの世の妻へのラブレター」永六輔

「..だからこの頃,仲の良い老夫婦を見ると殺意が(笑)」
の記述がありました
自分だけではないんだぁ
今日は愚痴ばかりになりました
心に裕子さんがいるから
大丈夫!と言えるようにするね
 2012年(平成24年)7月2日(月)
裕子さん
7月に入りました
去年の今頃はもう裕子さんは天国へ行ってしまったんだ
と思うとまたむなしい
最近,自分と同じ境遇を経験した人の本を読みました
「あの世の妻へのラブレター」永六輔
共感する箇所かたくさんありました
***
「淋しいのは耐えられます。悲しいのも耐えられます。虚しいのは耐えられません。」だったらどうしたらいいのか。毎日,自分で自分のカウンセリングをしているのですが,結構気が紛れるものです。
***
気をまぎらすものが自分にはあったから救われたのかなぁ
「男やもめ1年生」という言葉もありました
そうかぁ自分は「男やもめ2年生」に進級できたんだ

そうだ,遅れたけれど裕子さんに知らせたいこと
教え子達のメッセージ
少しずつ届けるね
先生達が何も言わないのに
裕子先生が天国へ行ったことを知った卒業生がたくさん
裕子先生への手紙を届けてくれました
子供たちの曇りのない言葉に
涙です。
2012年(平成24年)6月20日(水)
裕子さん
聞こえましたか
みんなでお墓に行きました
家がミシミシ猛烈な台風が明け方まで
そして青空が見えてきました
自然(天気)と大切な1日が実にタイミングよく織りなしてくれました
出席してくれた方を前に
裕子さんへの思い
この1年の思いを語りました,辛いとき励まし支えてくれた
人たちの前だから心の底から言葉がわき出るようでした
由貴聡美も語りました

自宅に戻ると「菊池 裕子先生は,私の中では大好きな先生のままです。」
と言うメッセージと共に花束が届いていました

疲れたので仮眠すると
電話が鳴りでると
裕子ちゃんの声がはっきり聞こえました
「母ちゃん!」
自分は叫んでいました
切れました
夢でした
今日は裕子さんが一番近くに来てくれた日です。
また!
 
 2012年(平成24年)6月19日(火)
裕子さん,裕子ちゃん,母ちゃん
今大きな台風が上陸,今夜関東地方も大荒れの天気になると
いうことです
シャッターの音も激しくなってきました
でも明日お墓に行きます
1年が立ちます
6月20日
あの日からここまで
何とか由貴聡美と三人で体調崩さずに迎えることができました
母ちゃんが全部引き受けてくれたんだね
辛かったあの日々がよみがえり
何度もうなされることがありました
会いたいなぁ

お友達からお手紙を頂きました
Yさん裕子さんが新卒でお世話になった先輩
「むずかしい高学年の児童を集中させ指導していたお姿
いつも朗らかで理知的な笑顔が思い出されます」
Hoさん
一緒に旅をして一緒の部屋で「まるで弥次喜多道中」だねと
二人ともゆったりとよく笑って
リラックスした旅だった

こんな友達の手紙を読むと
母ちゃんの家庭での
笑顔と笑い声が思い出されます

明日いくからね!
 2012年(平成24年)6月7日(木)
裕子さん
南アフリカでの第87回コムラッズマラソンに参加して
5日遅く帰宅しました
2010年にも参加して重いアフリカ太鼓を手がいたくなりながらも
成田空港から自宅に運んだことを思い出していました
「かあちゃんが何というかな?」
とんでもない買い物だからなぁ
と思いながら
でも
「いいんじゃない,調度品としても。」
この一言で
このアフリカの旅をして
よかたぁ
と思いました
アフリカにこんなに凄いマラソン大会があることを知ったのも
裕子さんのお仲間とスイス旅行をした時でした
いろんな心配がある中で
裕子さんの「行っても大丈夫」の言葉で実現しました
「下見のつもりで行くよ。」
いずれ二人でアフリカにも行ってみたい

由貴と聡美が旅の話しをよーく聞いてくれました
でもかあちゃんの無言は寂しい
「よかったね」のひびきを
思い出していました。
2012年(平成24年)5月26日(土)
裕子さん
明日南アフリカコムラッズマラソン参加のため
成田を出発します。
あの楽しかったスイス旅行での出会いがあったから
裕子さんがお仲間の旅行に誘ってくれたから
コムラッズを知りました
特別な気持ちです
ゼッケンにスイスでの最高の笑顔をした裕子さんを背中に背負います
JAPANの文字もプリントしました
アフリカにも一緒に行きたかった
2012年(平成24年)5月21日(月) 
裕子さん
昨日11ヶ月が過ぎました。
聡美とお墓参りをしました
6月20日1年が巡ってきます
ご住職とお話ししました
90歳のご住職とゆっくりとお話しすることができました
元高校の先生だったなど
90年の人生の歩みを話してくれました
人の話もよく聞いてくれて,記憶もしっかりしておられる
裕子さんの父さん,自分の父母もお世話になりました
お寺での生活なども話してくれて心が落ち着きます
そしてご住職自身早く奥さんを亡くされておられるから
自分の気持ちを分かってくれています
こんなにお寺を近くに感じたことはありません
また来ますと
お寺を後にしました。
 2012年(平成24年)5月7日(月)
裕子さん!
裕子さんが天国にいって
初めての誕生日を通り過ぎました
いつもやっていたように,お祝いの外食
柏に出て少し気の利いたお店でした
いつもだと母さんが会計だけど
今回初めてだね,二人が支払ってくれました
まだまだ自立まで心配だけれど
優しい気持ちがうれしい
一言由貴聡美に言いました
今自分がいちばん辛いのは子供の成長を
喜び合える「母さん」いないこと
父さんが由貴聡美に伝えたいことは何はさておき
健康のためにを考えて過ごしてほしいこと
連休に入り雨続きだったけれど
聡美と雨の中5qゆっくり走りました
5日続けられて聡美も少し自信がついたようです
二人が少しずつ走り始めたことが
何よりの「プレゼント」になりました
若者をリードできる体力を維持できていることに感謝します
母ちゃんが,皆の健康のために食事に気をつけてくれたからだと
思います。
 2012年(平成24年)5月4日(金)
裕子ちゃん
5月に入りました
連続3日大雨
青空と鯉のぼりが似合う季節なのにおかしな天気です
でも昨年の今頃辛かったね
青い空に鯉のぼりが自分の心とかけ離れているように思えました
後もう少しで5月6日
ここまで生きてこれたこと
裕子さんと過ごした日々に感謝する日にします。
毎日結構忙しく活動的で外見は元気そうに過ごしているけれど
ふとむなしくなるときがあります
最後は「母ちゃんと会いたいな!」

由貴が一歩前進しました
母ちゃんの後押しを感じているようです
三人の頼りの母ちゃん無しでの生活も11ヶ月目に入りました
三人が自立して生活できるように
自分は頑張ります
2012年(平成24年)4月20日(金)
あれから10ヶ月が経ちました
裕子さん
今どの辺にいますか
もうそちらには慣れましたか
こちらはまだ慣れません
三人で心合わせて生きているのがありがたい
でもそれぞれ忙しく3人で墓参りもなかなかできず今日は
午前は由貴と午後は聡美といきました
ご住職がお一人でいたのでお会いしてきました
90歳になったとお元気でした
ご住職も自分と同じような経験をしているので
気持ちが通じるような気がします
「3年はかかるよ。」と言われました。
田中好子さん4月21日1周忌の報道が聞こえます
あのとき病室で聞いたとき辛かったね
同じように闘っていた人が逝ったという報は。
 
 2012年(平成24年)4月11日(水)
裕子さん
今日は科博の仲間と高尾山に行ってきました
雨が降る,大風が吹くと天気予報のお陰で
人のあまりいない高尾でした
植物名に詳しい人の案内で
多くのスミレの可憐な花に
目を奪われました
しかし元気な女性たちを見て
ふとあのスイスでの情景が目に浮かびました
裕子さんとその仲間と行ったあの旅行で
植物を見つけるたびに立ち止まり
ワイワイと仲間とその植物について語ったときの楽しく生き生きした
裕子さんの顔を思い出し
ボーっとしていました
弁当を広げ皆で食べたときも
二人で湯を沸かし
コーヒーを飲んだ清里のことなどが思い出されました
ちょっとこの頃つらいです
「裕子さんがいたらなぁー」という思いが
何度もわき起こります
まだ裕子が天国にいったことを
認めたくない気持ちが強いです
全く安心しきっていられた裕子さんとの時間がほしい
もう少し時間が必要なのか
2012年(平成24年)4月9日(月)
裕子さん
桜が満開になりました
入学式そして始業式に丁度合わせてくれたように咲いています
今までは意識しなくても,仕事が新学期を
教えてくれました,今は「今日が入学式か」と人ごとのようです
庭には春の野草がいつの間にか咲いています
聡美の誕生祝い・由貴の合格祝いを
華屋与へいでやりました
聡美と荷物の片付けをしました
母ちゃんのものは大事にしています
沖縄で集めてきた多くの貝殻が見つかりました
きっと母ちゃんはこれを使って何か作るつもりでいたんだ
涙があふれてきます
聡美が今日母ちゃんの夢見て泣いた
とぽつりと言いました
由貴も聡美も
きっと悲しみを乗り越えようと頑張っているのだ
とおもいました。
母ちゃんは天国でいきている
三人の心にいきています。
2012年(平成24年)4月2日(月)
母ちゃん!昨日第61回鶴沼100qウルトラマラソン完走できたよ!
いつも「よかったね!」の一言メールだったね

天気に恵まれ筑波山が遠くに見える
神立駅のそばだった
青空と雲がきれいだった
きつくなったとき見上げると裕子ちゃんの笑顔が青空と雲を背景に見えるような
気きがしたよ

古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた 
いつもいつも胸の中 励ましてくれる人よ
晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔
想い出遠くあせても   おもかげ探して よみがえる日は 涙(ナダ)そうそう

一番星に祈る それが私のくせになり
夕暮れに見上げる空 心いっぱいあなた探す
悲しみにも 喜びにも 想うあの笑顔
あなたの場所から私が   見えたら きっといつか
会えると信じ 生きてゆく   晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔
想い出遠くあせても   さみしくて 恋しくて 君への想い 涙そうそう   
会いたくて 会いたくて 君への想い 涙そうそう

 
涙そうそう 歌詞  森山良子 作詞 作曲 BEGIN

この歌が自分の歌になりました。
 2012年(平成24年)3月31日(日)
凄い風が吹いています 交通機関も乱れました
遅い春一番かな
母ちゃん!今日はうれしい報告です。
由貴が介護福祉士国家試験に合格しました
涙が出てきました
不器用で引っ込みがちな由貴が介護の仕事について
頑張っている,少しでもステップアップして
仕事をものにして欲しいと
母ちゃんが勧めていた資格試験だったね
2次試験の実技は,職場の仲間が親身になって練習してくれました
毎日仕事を終えた後練習してへとへとになって
帰って来てたよ
仲間に支えられての合格が由貴にとって貴重だよね
「やればできるじゃない!由貴!」の母ちゃんの声が由貴に聞こえたと思います
自信をもつということが必要だよね
母ちゃんが天国に行って
由貴聡美が元気をなくして心配な状態になるのではと
内心不安でした
一番落ち込んでいる自分を二人が励ましてくれています
「父さん,今日は何した!」と聞いてくれます
いつも母ちゃんにいろんな話しをして落ち着いていたから
話しを聞いてくれるのがありがたい
聡美のアルバイト先塾での生徒とのやりとりなど
聡美もたくさん話してくれます

もう一つの報告
裕子先生のものがありましたと連絡がありました
昨日スケッチブック等辰沼小学校に車で取りに行きました
学校では今年度の整理と次年度に向けた
準備が始まっているんだ
長いこと教師をしてきたのに,もう学校の「リズム」を忘れています
正直いって,行くのがつらかった,
段ボール一個ありました
そして職員室からこられた先生から袋を頂きました
中には卒業生からの手紙が入っていました,泣けます
裕子さんが天国に行った
直後もたくさんの卒業生からのメッセージが寄せられたよ
これらも裕子さんに読んでもらいたいから
紹介するページ作るから待っててね

それから
感謝状が届いています
東京都教育委員会から
足立区教育委員会から

今年度が終わるんだね

それでは,また来るね
2012年(平成24年)3月25日(日)
裕子さん,のぞみ君がきてくれました。
何年ぶりなのでしょう
2001年(平成13年)1月27日(土)らすとボーイズと仲間たちコンサートにきてくれて以来の対面です
立派に成長していました
裕子さんがコンサートにのぞみ君を誘ってくれた経緯
「今コンピュータ関係の仕事をしているけれど
そのきっかけは菊池先生です。」
とか,初めて知ることも多くて
たくさんお話しできました。
悩んでいたとき「菊池先生に励まされ,いつも感謝していました。」と語ってくれました。
裕子先生は生徒のためにも頑張っていたんだね。
由貴聡美も一緒に話しを聞きました
 
 2012年(平成24年)3月22日(木)
裕子さん,元気かい!
3月20日お墓参りに一人で行きました。
あれから9ヶ月経ちました。
18日には由貴聡美と3人で行きました。
3人で一緒する時間の調整が結構大変なんだよ。
でもお墓参りは苦になりません。
天国への入り口みたいで,裕子さんを一番近く感じられます。
お墓に向かって,お話しすると
母ちゃんの声が聞こえてきそうです
裕子さんのお父さんのお墓もきれいにして花を飾りました

家の垣根のピンクのサザンカの大輪がきれいに咲いています

2012年(平成24年)3月16日(金)
裕子ちゃん,今どこにいるかな
昨日も夢に見たよ
もう3月春なのに,例年になく寒い日が続いています
梅,桜と開花を楽しみにしている人が多いけど
自分は全然楽しみにしていないよ
裕子ちゃんが病魔と必死に闘った日々の事が鮮明に思い出される
背景には
満開の桜があった
同じような経験した人でないと分かってくれないだろうなと自分の殻に閉じこもります

退職したら一緒に世界中を旅行しようの夢が消えたけど
約束した旅を始めました
ツアーでなく一人旅をしようと思うけどまずはツアーで
中国に行ってきました
11人のツアー
きっと5つのペア−と自分一人だろうなと思ったら
その通りだよ
何より裕子さんの書心と絵心を刺激するだろう
中国の書絵を一人で見るのが悔しかったよ
広くて豪華なホテルの部屋..
これに慣れるようにするね
でも会いたいなぁ 
 2012年(平成24年)3月2日(金)
一人になると「裕子,会いたいよぉー」と言っています。
由貴聡美が頑張っているのを応援しているよ
小さいときあんなに心配したのにねー
と夫婦だけしか分からない会話ができないのが寂しいね
もうこんなこと言ってちゃダメかもしれないけど
2月26日東京マラソン走ったよ!
昨年母ちゃんが病室の人に誇らしげに
完走メダルを見せてくれた,あのときの光景があの病院の前を
通過したとき思い出した
ちきしょう!病魔め。
もうすぐ3月11日がきます。
多くの人が悲しみを思い出し祈るだけです。
春が来るのが全然楽しくない
きれいなさくらも,きれいに見えないときがありました。
 2012年(平成24年)1月19日(木)
裕子さん,今頃どの辺かな
明日で裕子さんが旅立って7ヶ月になるね
今年は正月気分になれなかったよ
いつも母ちゃんの「おせち料理」がありました。
少しでも作らねばと思ったけどゆとりなし
あの忙しい中で,てきぱきと各種の料理をつくってくれましたね
おじちゃんの分まで届けてくれましたね
由貴聡美と3人で母ちゃんの力をあらためて感じています。今年は
買いました。そしてIさんが,届けてくれました
我が家伝統の餃子つくりはやりました

裕子さんにあれから,年賀が続いています
これから皆さんにお返事します
これもちょっとつらいしごとかな

裕子さんにお知らせしておくね
2011年天国に旅立たれた裕子さんも知っている著名人
3月にコント55号の坂上二郎さん
4月キャンディーズ田中 好子さん(55歳)俳優
5月児玉 清さん
6月ピーター・フォークさん 刑事コロンボ役の俳優
7月 宮尾すすむさん リポーター
伊良部 秀輝さん(41歳)プロ野球選手
8月松田直樹さん(34歳)サッカー選手
前田武彦さん
9月杉浦直樹さん 俳優
10月スティーブ・ジョブズ(56歳)米アップル会長
北杜夫 作家
11月立川談志さん 落語家
12月森田芳光さん 映画監督

その他に世界で話題になった
ウサマ・ビンラディン(5月)金正日(12月)もいます。

若くして,能力がありこれからを期待できる人が多く旅立っていきました。
裕子(54歳9ヶ月)さんもその一人だ! 
2012年(平成24年)1月4日(日) 
裕子ちゃん
お墓参り道具はいつも裕子ちゃんが用意してくれていたけど
自分がやるようになったよ。おじちゃんも一緒に
墓参り後,母さんにご挨拶してきました。大変喜んでくれました。
今日も
裕子ちゃんが旅たった事を連絡できなかった方から年賀が届きました。
Yさんからの年賀に
「毎年素敵な版画の年賀を頂き..」とありました。
自分が裕子さんを誇りに思うなかに
絵・書がありました。これを大事にした年賀はパソコンで作られたものより
ずっと心に残る。
自分がパソコンで年賀を作っている横で,自分よりも早く
せっせと作る裕子さんを思い出しています
そして「いい感じだね」と感心して見ていました
自分にはできない能力を
母ちゃんは持っていたね!そしてみんなを楽しませていたね。
Yさんの他にOさんkさんMさんHoさんHiさん
今日から仕事始めだよ
また!
 2012年(平成24年)1月1日(日)
裕子さんが天国へ旅立ったことをお知らせできなかった方から
年賀がきました。
裕子さんを「師匠」と呼び慕っていた教え子のNOZOMI君からです
毎年きれいな絵手紙ありがとう御座います。
去年社会人3年目にして大震災に直面し
大きく環境が動きました。暗い話で申し訳ないのですが
会社が破綻して社員全員が解雇されました。震災の影響です。
昨年はこれを機に勉強していることなど
一層努力していく年となりました。
師匠も頑張ってください。

SINNGO君からです
先生,お体の方はいかがですか
寒い日が続きます
体を冷やさないように気をつけてください。
通信制短大も残り1年になりました。
卒業できるように頑張ります。

自分はあらためて裕子さんが教師としていい仕事をしてきたと
誇りに思います
お二人には,連絡して直接お会いして
裕子さんの思いを伝え感謝したいと思っています。
2011年(平成23年)12月31日 
1年が終わります。
裕子さん今頃どこにいますか。
3人で年末の大掃除もやりました。
母ちゃんの働きをカバーするのに大変でした
ふと手を止めて裕子さんの残してくれた物にふれると
思いがこみ上げてきます。会いたいなぁ。
少し足も調子悪いしランニングストップ,沈みがち
やはり裕子に聞いてもらいたい
この場が裕子へお話しするによい場所かもしれません
ホームページは世界中から見ることができます
ひょっとしたら旅行が大好きだった裕子がどこかで見ているかもしれないと思うだけで
すこし気が楽になります。
これからときどき,お話しにきます。
 2011年(平成23年)6月20日午前9時34分
裕子が天国へ旅立ちました
家族でしっかり見守りました。
生と死はつながっていると
信じます。