東京都公立中学理科教師35年
 私は1976年(昭和51年)から35年間公立中学校理科教師として働きました。最後の1年は1,2,3学年の理科を平行して教えるというハードな時間割も何とかこなすことができ退職を迎えました。
管理職へのお誘い,他種学校(高校,夜間中学)へのお誘い等,現実の厳しさから逃れたいと何回かの分かれ道があったように思います。非行が荒れ狂ったときは,本気で職を辞さなければならないか考えたときもありました。強そうな教師に従順なツッパル生徒を見て,やはり自分も腕力でも生徒の上をいかねばと真剣に空手道場に見学に行ったときもありました。泣きながら職を辞した先生もいました。理科室で二人がかりで向かってくる生徒と格闘し試験管が割れることもありました。そんな厳しい状況の中でも荒れ狂った中学生と真剣に立ち向かう先生たちがいました。多くの先生から学びました。そしてハラハラしながら私を応援してくれている多くのこどもたちの存在が私を支えてくれたように思います。「先生も人間だ!これほど嫌な思いをさせられた生徒とは,二度と会いたくない!」やくざに入り良い噂が聞こえなかった生徒と10年以上経って合うチャンスがありました。「先生!ご迷惑をお掛けしました。」と挨拶され,やくざもやめてまじめに生きていました。中学校の教師は大変だけれど,10年先に分かってくれればいいや!という思いでやればいいのだと,そのとき私は苦しいけれど中学教師として深い喜びを感じたものでした。心と体のバランスがとれない思春期のこどもたちに親以外に寄り添える大人としての存在が教師です。その若いこどもたちの成長を心配しながら見守り,手助けする教師としてそして公立中学校理科教師として働く事ができたことを誇りにしています。
 教育の世界も急変 最後まで努められるのか不安が年齢を重ねるごとに大きくなりました。生徒達の応援,家族の支え特に同じ教師として同等の仕事をしながらの妻の支えで私は退職まで働く事ができました。           2012年(平成24年)7月1日
足立区立第一中学校   1976(昭和51)年4月〜1984(昭和59年)年3月【8年】
 大学卒業してぴかぴかの先生 
 全クラスで毎日学級通信がででいた。もちろんワープロなど普及していない時代。
ゲステットナーという手書きの印刷。もちろん先輩に負けじと,若さにまかせてときには夕刊まで発行し学級通信を書き続けた。
本格的オリエンテーリング その当時全都で先進的な班行動の修学旅行など 
腹に雑誌を巻いてやくざの元へに乗り込んだ先生 
ねらわれた生徒を守るため自宅にまで泊めた先生
子供のために教師は何をすべきか その心を学んだ学校だった。
そしてギター&ドラムクラブはここで作った。
 
葛飾区立奥戸中学校  1984(昭和59)年4月〜1989(平成元)年3月【5年】
 昭和55年5/4ラジカセ事件全国初の中学生現行犯逮捕 で荒れる中学校として連日マスコミに報道された学校として有名だった。 私が赴任した時は,平静を取り戻し先生達も元気いっぱい学校再建に取り組んでいるときだった。
 体育祭  わらび座修学旅行 そうらん節  文化祭  
障害児学級と各学年10クラス 1000名以上の生徒の動きはダイナミックだった。
マイクを使った職員打ち合わせ教 職員の数 個性的な持ち味の先生との出会いがあった。
 そしてマスコミに有名な学校だった。そして私がアメリカの公共放送PBSの取材を受け
FACES OF JAPANという番組ができた。そしてそれが全米で放映されそれをきっかけにアメリカの学校で授業をするチャンスを得た。とんでもない経験をたくさんさせてくれたエネルギーあふれる学校であった。

1999年6月9日(水)さつきの会開催 松尾先生 松本先生他 奥戸中学校を再建した同志の集まりに小生も招かれた。
パソコンで初めて試験問題を作る。珍しいことだった。
 
文京区立第五中学校
1989(平成元)年4月〜1993(平成5)年3月【4年】
上野で乗り換え秋葉原そして市ヶ谷で乗り換え有楽町線の江戸川橋下車 「6つの川を渡ってやってきました。」が挨拶のキャッチフレーズでした。最後の神田川をいつものぞいていました。大きな立派な鯉が悠然と泳いでいる。決してきれいな川でないけれど生き物が生きられる川をみてホッとしたものでした。
 学区域には,椿山荘 田中角栄の邸宅 多くの大学 高校があり都心の中学校らしく地面の校庭がなかった。 そして私が赴任したときびっくりしたのは校舎の老朽化(その後改修工事がなされた)
 しかし生徒は可愛かった。気分一新するためパーマをかけたのもこの時期。そのときの生徒の反応がおもしろかった。
 1年生の八ヶ岳での移動教室3泊4日 教員はきつかったけれどこれはすばらしかった。校庭のない生徒達は1日中広い校庭で遊びまくった。私もうれしくて昼は野球 夜はバスケットとフル回転,年を忘れて無理したのかその後右肩が動かなくなり回復するまでなんと3年かかった世に言う40肩らしい。
パソコンに本格的に取り組んだのもこの時期。パソコン教室をつくる時期でいろいろ意見を言わせて貰った。LANでつながれたパソコンを駆使しての授業も正規の授業に組み込み余りやる人がいないので思う存分できた。そしてパソコンを使っての授業の良い点 悪い点が見えてきた。
○2000年1月22日(土) 2000年の会 大成功
 
板橋区立志村第五中学校
1993年(平成5)年4月〜1995(平成7)年3月【2年】
取手 日暮里 巣鴨 志村3丁目の通勤 2時間 芝浦工大付属高校と隣接している。男女ともブレザーの制服  「私立の中学校ですか」などと通行人から訪ねられた。正門に楠がどっしりと根を生やし,来校者を迎えてくれる。校舎もきれいで,体育館の位置が2階で普通教室に隣接していて大変機能的にできていた。教室の横が学年のホールとなっており,学年集会が何の気兼ねなしにできたのは,計り知れない教育的効果があった。
年齢に応じて自由にならない自分を自覚した。自分のことより家族のこと。そのためにできるだけ早く家に帰ることが条件だった。学校はできるだけ学校にいて生徒と接する時間を長くとれること それができる先生を中心に学校は動いている。
それでも,1年目で部活ギター&ドラムクラブに集まった生徒たちがスバラシイ力を発揮した。
先生達も一人一人個性的で熱心に教育活動をしていた。特にパソコンを使おうという雰囲気が旺盛で簡単なLANを使ってプリンターを共有したり,新しいことをどんどんやろうという動きがあった。
・1995年3月20日 地下鉄
サリン事件
(2018年7月6日オウム麻原ら6人死刑執行)
足立区立第十二中学校
 1995年(平成7)年4月〜2003年(平成15年)3月【8年】
いきなり3年1組の担任。3年担任ががらっと入れ替わりおかしいなと思った。とんでもない始業式から始まった。私の不幸を予言するような始まりだった。その年の6月妻が大病 初めて職をはなれ「主婦(夫)」としての生活を経験することになった。
1999年(平成11年)5月31日修学旅行(3年1組担任)
足立十二中のすばらしいパワーを感じる場面が多くなった。最悪のスタートから徐々に明るい見通しがでてきた。平和な学校これが何よりだ。
2000年(平成12年)3月18日 53回卒業式 十二中で4回目の卒業式 課題は残したものの久しぶり感動の卒業式だった。172名の卒業生に2006年3月25日(土)に会おうと言うメッセージを送った。
2000年(平成12年)足立十二中学校 5年目 教職25年目 160名の話題の新入生への取り組みが始まった。その先頭に立つ立場で頑張ろう。
2001年(平成13年)4月足立十二中学校 6年目 教職26年目 学級減 で16学級
そこで2年生の代表者。珍しく学年の先生のメンバーが全く同じ。今迄の積み重ねが出来る,そしてお互いの持ち分を理解し合っての教育実践が出来るのがうれしい。やる気に満ちている。
2001年(平成13年)10月 勤続25年感謝状を頂く。
教師としていろいろな経験をした学校でした。そして個人的にランニングに私を誘ってくれた友人との出会いもこの時期でした。
・2000年9月シドニーオリンピック(高橋尚子金メダル)
・2001年9月11日米国で同時多発テロ
荒川区立第一中学校 2003年(平成15年)4月〜2007年(平成19)3月【4年】
4月20日(日)ギター&ドラムの機材を搬入。生徒が2時30分正門集合。
3年の2学期がやっと終了した。2学期は8月26日の手術入院で9月の1週間を休まなければならなかった。そして終業式の翌日12月26日再手術。生徒達に心配をかけた。
初めて運動会1500メートルに出ました。一人の傑出したランナーの成長を楽しみに自分のランニングにも熱が入りました。
 
文京区立第十中学校  2007年(平成19)4月 〜2010年(平成22年)3月3年
教職最後の学校として意気込み高く赴任しました。小石川植物園がすぐそばにあり,白山通りを下れば皇居環境は文句なし。1年生の担任として教室に行くのが楽しく気持ちにゆとりがあった。ただもうすぐリタイアーする者として前面には出ない後進を育てる配慮が必要だと自覚した。担任は持ちたかったが2年から副担任におりた。でも生徒達は可愛かった。ギター&ドラム部 LSDランニングクラブをつくる。LSDランニングクラブは2年目で認められ最初から多くの生徒が集まった。

最後の卒業式
 
文京区教育センター科学専門指導員 2010年(平成22年)4月 〜
理科の教師の願い,実験の準備もユックリじっくり事前の学習をして授業に臨む。これを心ゆくまで実現できた。8人の専門指導員の一員として,理科教育に専念できたことは自分の科学への興味をさらに駆り立てることになった。人生のベテランの仲間とのチームワークと心遣いがありがたかった。上野駅から駆け上り,帰りは東京ドーム横を走り上野までの通勤ラン。昼休みラン。そしてある時期から妻を看病するため自転車での病院通い。そして2011年3月11日大地震。
2011年4月2年目の辞令も受けてスタートしたが妻の看病が昼休みだけでは心配な状況になってきた。看病に専念するために退職を決意した。
 
国立科学博物館教育ボランティア 2010年(平成22年)4月 〜
退職と同時に教育ボランティアの仕事に入れたことは,自分にとってありがたいことでした。知的なこと。社会とつながる。通勤が貴重におもえた。
 
まなびばおきなわ教育顧問
相談役
2011年(平成23年)2月〜
 若い起業家から要請を受けてのことでした。大学生に長い年月プロとしてダイビングを指導してこられた実績からの教育への情熱が伝わってきました。自分の不得意なことへの挑戦として「NAHAマラソン完走プロジェクト」を立ち上げ多くの若者を巻き込んでの取り組みを始めたその実行力と誠実さに感心しました。その面でも協力していくことにしました。自分自身も若い人から「まなび」勉強していこうという決意で臨みます。大好きな沖縄とのつながりを大事にしたい。