足立区立第一中学校 1976(昭和51)年4月〜1984(昭和59年)年3月【8年】
大学卒業してぴかぴかの先生 
 全クラスで毎日学級通信がででいた。もちろんワープロなど普及していない時代。
ゲステットナーという手書きの印刷。もちろん先輩に負けじと,若さにまかせてときには夕刊まで発行し学級通信を書き続けた。
本格的オリエンテーリング その当時全都で先進的な班行動の修学旅行など 
腹に雑誌を巻いてやくざの元へに乗り込んだ先生 
ねらわれた生徒を守るため自宅にまで泊めた先生
子供のために教師は何をすべきか その心を学んだ学校だった。
そしてギター&ドラムクラブはここで作った
葛飾区立奥戸中学校
1984(昭和59)年4月〜1989(平成元)年3月【6年】
 昭和55年5/4ラジカセ事件全国初の中学生現行犯逮捕 で荒れる中学校として連日マスコミに報道された学校として有名だった。 私が赴任した時は,平静を取り戻し先生達も元気いっぱい学校再建に取り組んでいるときだった。
 体育祭  わらび座修学旅行 そうらん節  文化祭  
障害児学級と各学年10クラス 1000名以上の生徒の動きはダイナミックだった。
マイクを使った職員打ち合わせ教 職員の数 個性的な持ち味
 そしてマスコミに有名な学校だった。そして私がアメリカの公共放送PBSの取材を受け
FACES OF JAPANという番組ができた。そしてそれが全米で放映されそれをきっかけにアメリカの学校で授業をするチャンスを得た。とんでもない経験をたくさんさせてくれたエネルギーあふれる学校であった。

1999年6月9日(水)さつきの会開催 松尾先生 松本先生他 奥戸中学校を再建した同志           の集まり 小生も招かれた。
パソコンで初めて試験問題を作る。珍しいことだった。
文京区立第五中学校


1989(平成元)年4月〜1993(平成5)年3月【4年】
上野で乗り換え秋葉原そして市ヶ谷で乗り換え有楽町線の江戸川橋下車 「6つの川を渡ってやってきました。」が挨拶のキャッチフレーズでした。最後の神田川をいつものぞいていました。大きな立派な鯉が悠然と泳いでいる。決してきれいな川でないけれど生き物が生きられる川をみてホッとしたものでした。
 学区域には,椿山荘 田中角栄の邸宅 多くの大学 高校があり都心の中学校らしく地面の校庭がなかった。 そして私が赴任したときびっくりしたのは校舎の老朽化(その後改修工事がなされた)
 しかし生徒は可愛かった。気分一新するためパーマをかけたのもこの時期。そのときの生徒の反応がおもしろかった。
 1年生の八ヶ岳での移動教室3泊4日 教員はきつかったけれどこれはすばらしかった。校庭のない生徒達は1日中広い校庭で遊びまくった。私もうれしくて昼は野球 夜はバスケットとフル回転年を忘れて無理したのか その後右肩が動かなくなり 回復するまでなんと3年かかった世に言う40肩らしい。
パソコンに本格的に取り組んだのもこの時期。パソコン教室をつくる時期でいろいろ意見を言わせて貰った。LANでつながれたパソコンを駆使しての授業も正規の授業に組み込み余りやる人がいないので思う存分できた。そしてパソコンを使っての授業の良い点 悪い点が見えてきた。
○2000年1月22日(土) 2000年の会 大成功
板橋区立志村第五中学校


                             
1993年(平成5)年4月〜1995(平成7)年3月【2年】
取手 日暮里 巣鴨 志村3丁目の通勤 2時間 芝浦工大付属高校と隣接している。男女ともブレザーの制服  「私立の中学校ですか」などと通行人から訪ねられた。正門に楠がどっしりと根を生やし,来校者を迎えてくれる。校舎もきれいで,体育館の位置が2階で普通教室に隣接していて大変機能的にできていた。教室の横が学年のホールとなっており,学年集会が何の気兼ねなしにできたのは,計り知れない教育的効果があった。
年齢に応じて自由にならない自分を自覚した。自分のことより家族のこと。そのためにできるだけ早く家に帰ることが条件だった。学校はできるだけ学校にいて生徒と接する時間を長くとれること それができる先生を中心に学校は動いている。
それでも,1年目で部活ギター&ドラムクラブに集まった生徒たちがスバラシイ力を発揮した。
先生達も一人一人個性的で熱心に教育活動をしていた。特にパソコンを使おうという雰囲気が旺盛で簡単なLANを使ってプリンターを共有したり,新しいことをどんどんやろうという動きがあった。
足立区立第十二中学校

1995年(平成7)年4月〜
いきなり3年1組の担任。3年担任ががらっと入れ替わりおかしいなと思った。とんでもない始業式から始まった。私の不幸を予言するような始まりだった。
その年の6月妻が大病 初めて職をはなれ「主婦(夫)」としての生活を経験することになった。

1999年(平成11年)5月31日修学旅行(3年1組担任)
足立十二中のすばらしいパワーを感じる場面が多くなった。最悪のスタートから徐々に明るい見通しがでてきた。平和な学校これが何よりだ。

2000年(平成12年)3月18日 53回卒業式 十二中で4回目の卒業式 課題は残したものの久しぶり感動の卒業式だった。172名の卒業生に2006年3月25日(土)に会おうと言うメッセージを送った。
2000年(平成12年)足立十二中学校 5年目 教職25年目 160名の話題の新入生
への取り組みが始まった。その先頭に立つ立場で頑張ろう。
2001年(平成13年)4月足立十二中学校 6年目 教職26年目 学級減 で16学級
そこで2年生の代表者。珍しく学年の先生のメンバーが全く同じ。今迄の積み重ねが出来る,そしてお互いの持ち分を理解し合っての教育実践が出来るのがうれしい。やる気に満ちている。
2001年(平成13年)10月 勤続25年感謝状を頂く。
荒川区立第一中学校 2003年(平成15年)4月〜
4月20日(日)ギター&ドラムの機材を搬入。生徒が2時30分正門集合。
3年の2学期がやっと終了した。2学期は8月26日の手術入院で9月の1週間を休まなければならなかった。そして終業式の翌日12月26日再手術。生徒達に心配をかけた。
 私は 1976年(昭和51年)から中学校で理科を教える教師として生きています。 だから学生として学校を卒業してから,学校に就職し切っても切れない関係に学校があります。 ただ私が知っている学校は,ほんのわずかです。ただそこでの経験は,日本の学校に共通したものを含んでいます。 まずは,私が経験した学校の紹介をします。
 私の身近な学校