(Sorry!! Japanese Only)
このページでは、50歳を記念してそれにかこつけていろいろやってみよう。
挑戦してみよう。ここに発表するために頑張ろう。こんな感じです。
2000年4月29日〜30日 雲取山縦走


雲取山頂からの富士山 何か幻想的だった。初めての縦走で木の香りがまだ新しい雲取山荘での宿泊。登ってきたそのままで眠ることができたと言うことが新鮮であった。山男にとって当たり前なのだろうが私にとって新しい経験。
雲取山荘の日没 雲取山荘の夜明け

2000年4月16日 家庭菜園始める 続くかな


2000年3月31日 「高石ともや58歳を歌う」で歌う
絶対お薦め
2000年7月14日【金】7:00開演
高石ともや&ザ・ナターシャ・セブン
コンサート2000

ところ:渋谷公会堂
¥5000円
主催:東京労音/ニッポン放送
東京YMCAチャペルに3時集合 「高石ともや」コンサートの中で歌わせてくれるという企画に応募したら高石ともやさんがじきじきにコンサート開演6時30分を前にリハーサルをしてくれるという。お金を払って聴きに来てくれるお客さんがとんでもない不快な気持ちになっては。そうか!今日歌うと言うことは高石ともやのコンサートの一部なのか。これは大変なことになった。私の他ソロが3人 そして若者のフォークグループが1組。まず最初にグループの演奏から始まる。ともやさんから厳しい注文それに応えていくうちに,若者グループは見違えるような音と演奏する顔になっていく。
ともやさんがいかに聴衆と歌を通じて心を通わせるかを海外での経験も織り交ぜながら指導しながら話してくれた。
 私は自分で作った曲を用意していったが,これは引っ込めた。多くの人が聴いて共感するような歌を歌わないとと言った雰囲気を感じた。「生きて生きて生きて」を歌った。リハーサルだけれど緊張で手に汗が出る。あの高石ともやに聴いてもらえるのだ。若者達も真剣に聴いている。結構気持ちよく歌えたかと思った。「あなたのは文字を伝えている歌だ,自分の体を通した歌にするため楽譜をはずしなさい,私が預かるから」ズバリと言われた。「楽譜がないと不安なんです」
「それを乗り越えられたら歌になる」そんな会話をともやさんとした。本当にニコニコしながら音楽を楽しみながら作っていく。最初はバラバラだったグループがひとつのうたに集中して聴衆に聴かせる音楽になっていく,そして初対面の者同士が音楽を通じてともやさんを通じて仲間になっていく。

 6時前から少しずつお客さんが入ってきた。ともやさんもブレザーに着替えいよいよ本番の緊張が高まっていく。若者は少ないがじっくり歌を聴こうという雰囲気はこわい。ギターと歌だけドラムもない。教会のチャペルで歌うという経験も貴重だ。後ろの壁に十字架。
高石ともやさん自らの進行で温かい雰囲気でコンサートが始まる。
トップは白石さん「私に人生といえるがあるなら」次は高校の先生 稲石さんギター演奏がうまい 次が20歳の好青年矢ヶ崎さん 若者らしく新鮮 これからどんどんうまくなりそうだ。プロも目指せる可能性を感じた。そして次にいよいよ私が紹介された。静かな視線が集中する。まちがったらどうしょう。私は50歳になりますというような紹介をして歌い始めた。高石ともやさんがニコニコしながら聴いている。初めてだ!こんなにじっくりと人の顔を見て歌ったのは。あれ!私の歌に合わせて体を動かしている人もいる。自分の顔もそれに合わせてきっと変わっているだろうなぁ...歌い終わった!大きな拍手をもらった。高石ともやさんもうれしそうに拍手している。もう一曲やっていいという。 「君と君と君と」を歌った。この瞬間高石ともやさんが言ってくれたことがわかった。こんなすばらしい経験をさせてくれた。「あなたは歌える」ともやさんがほめてくれた。「今日が出発の日だ。」すれ違った観客の方から「よかったよ」「グループの若者から「生きて生きて生きて」という歌感動はしました」と言われた。最後に藤井さん中心のグループ(九州から来たという),みんな緊張しているがいい顔を聴衆にまっすぐ向け堂々と歌っている。リハーサルの時よりもまた一段とよくなっている。
 2部は高石ともやさんが歌をじっくり聴かせた。渋谷公会堂での大舞台でもすごいと思ったが,この小さな会場で表情までしっかりと観れるところで初めて高石ともやの歌の魅力を知ることが出来ると思った。同じ舞台でやっと2曲歌った経験をしたばかりなので高石ともやの偉大さをじっくりと味わえた。

そしてそれを支えているスタッフの人達 労音の人達と 楽しい交流が出来た。元気の出る思いがした。


2000年1月1日 初日の出を見る
ままで深夜までテレビを見て昼近くに起きる正月がほとんど 若いときは渋谷のジャンジャンのライブで年を越したり 新宿の駒劇場で24時間ジャズフェスティバルで年を越したりしたこともあったが 初日の出を見るというのはやったことがなかった。 テレビもおもしろくないし少し早く眠れたからできた。でもこの気持ちよさはまたやりたくなりそうだ。たき火を囲んで酒を飲んでいる人達もいた。この日だから許せることもあるのだ。太陽に向かって神妙な顔をして歩いている人達もいた。これはおもしろい。来年は少し準備してみよう。燃料を用意してコーヒーを飲めるようにするとか。1月1日が長い有意義な一日となった。


筑波山を研究しょう
2000年初めて登山3回目 巨岩の位置が集中している 北のほうに日光の連山が雪化粧をして見える。そうかぁあの山々と連なっているのか? 平野に突然現れたように見えるが,それは連山の南端なのかもしれない。適当に想像し,これから本気で筑波の歴史とそれに詳しい人を探してみよう。今回はなんと筑波神社の駐車場に着いたのが自宅から52分。2日前の雪が残っていて876メートルの高さも馬鹿に出来ない。
雪に足を取られながらの登山となった。下りは3回転倒。最後はコースを辞めて道路を歩いた。これもなかなかよかった。景色がどくどく出暖まる
家から車で1時間30分以内(渋滞がなければ1時間以内で行ける)の所に我が家の窓から見える筑波山がある。思わず見上げてしまう巨木と今にも頭に落ちてきそうな巨大な岩石がおもしろい位置で静止している。この岩石はいつ頃からこんな状態になったのだろう。日本100名山に登るのもおもしろいがおなじ山に何度も登りその歴史を調べるのもおもしろそうだ。
とにかく気軽に行ってすぐ帰れる そしてかなりのハードなコースで登った充実感も得られる。

陣馬山にのぼる   10月1日
○葛飾区の退職教職員の仲間と登山した。久しぶりに会った三石さん 山本さんと元気で楽しい仲間達と最高の時間を過ごした。そこで話される話題がみんな貴重に思えた。現役の参加者は3名だがこれからの自分を考えるのに様々な刺激を与えてくれる大先輩との交流を続けていこう。
 最後の陣屋温泉がすばらしかった。












 東京〜取手ナイトウォーキングに参加   8月12日      

       午前9時過ぎ ゴールで健闘をたたえ合う    

災害の時に,あなたは職場(東京方面)から家までで歩いて帰れますか。の発想から,最初は有志数名で始めたウォークだそうです。
今回で五回目となります。一度は,やってみたかったので,参加を申し込みました。佐藤会長は,それなら,松戸から取手まで歩いてみようと,7月31日に二人で,歩きました。そして何とか歩けた,足が棒になった。けれども,何とか行けそうだと感じました。

スタートは,東京駅〜日本橋〜両国〜錦糸町〜亀戸天神〜(蔵前橋通り)〜平井〜平井大橋〜新小岩〜(柴又街道)〜柴又帝釈天〜(江戸川堤)【足立十二中学のマラソンコース】〜葛飾橋から松戸〜北松戸〜馬橋〜新松戸〜北小金〜(261号線)〜南柏〜柏〜(6号線)〜北柏〜我孫子〜青山台〜大利根橋〜取手(新町5丁目八重洲ニュータウン自治会館)

□久しぶりの東京駅の外観が素敵になっていた あの煉瓦造りも一部保存されている□参加人数26名 8名が女性 みんな40歳は超えているようだ□午前1時30分頃柴又帝釈天で夕食 静まり返った「寅さんの街」で食べたおにぎりは最高□おにぎり10個持参したのがよかった□水もペットボトルに10本くらい飲み終えたらコンビニのゴミ捨てへどんどん荷物が軽くなった□深夜 江戸川土手を歩いていると,ラジオ深夜便(NHK)で紹介される「30名ほどの人達が取手に向かって歩いています.....」 みんなは,この放送を聴いて元気づいた ちょうど12中のマラソンコースを歩いているときだった□久しぶりの徹夜 しかも歩き続けての 途中強烈に眠いときがあった
□夜も明けて空が白々してきた,太陽が雲に隠れていて助かった 疲れたときの日差しはこたえるそうだ□大利根橋を渡るとき,やったーという高ぶりを感じる。先輩から祝福の冷たい水を頂いた
                                 

 思い切って蔵書の処分  8月

まずは,毎日接している中学生へのメッセージ

                                                  1999(平成11)年5月6日(木)
理科+α3年生へのメッセージ
                                                           菊池 亮

 5月6日 50歳になりました。十二中学校も50周年行事を盛大にやりました。全く個人的にしみじみと自分の記念すべき日として過ごしてもよいけれども,何かこれを契機に「理科的+何か」を考えました。 

 先生という職業の特権は13歳から15歳と言う一番頭脳が新鮮な人間と接することができるということです。だから大人としてその頭脳に語りかけられると言うのは貴重なことだと思えます。君達に理科を教えて3年目。 そこでこんな メッセージを送ることにしました

生物として50年生きてきた自分が君たちにもっとも言いっておきたいこと+α

○2本足で歩くことができる脊椎動物の真骨頂  背骨をしっかりのばそうかっこよく歩ける練習をしよう。肉体的(心の)姿勢をよくして,生活しよう。

今,私は身近に老人と生活しています。日に日に歩くことが困難になっていく父親,自分を育て元気に働いていた頃の父を思い浮かべ人という生物の一生で何が大事なのか考えてしまいます。
自分の足で背骨をまっすぐして歩ける この状態をできるだけ長く続けられるようにする事。若いときは余り考えられません。姿勢を正して歩くようにしよう。

○ わかった ああそうかぁ このつぶやきを1日に何回も発せられるように勉強しよう。 何か自分の好きなことにとことんこだわってみよう。(他の生物ができない。)
 勉強 受験 テスト .....何か重苦しい響きとしてのしかかってきていませんか
本来 ものを知る できる これは人間としての大きな喜びなのです。それが苦痛に思えるのは何ででしょう。もっと工夫をして楽しく学べるようにしてみよう。学校だけの勉強ではなく何か自分が興味を持ったことを糸口にトコトンこだわってみよう。
 私の知人に釣りの名人がいます。その人から昆虫針がどこに行けば手にはいるか問い合わせがありました。「何をするの」と聞いたら,釣り針を作るのだと言います。魚の習性を研究すると市販されている針では不満足というのです。昆虫針にも様々な種類がありそこから適切な号数のはりを手に入れ自作の針で釣りをする。好きなこととはいえ,そこまでこだわりだした釣り師は周りの人から尊敬され,大変な成果をあげています。

○ 50年生きているとうれしいこと悲しいこと 一世一代の大失敗  せっぱ詰まった危機 そしてとんでもない話があります。 みんなに知的刺激になるものはないか?振り返ってみました。とんでもないおもしろいことがありました。

1988年の3月アメリカのサンフランシスコの北 車で1時間のペタルマという街にいる私の友人(アメリカ人の社会の教師)の家に単身でステイしました。小さな街と言ってもさすが大きなアメリカ,新聞テレビの規模は日本の全国並。その新聞が私の滞在中のことをニュースにしたのです。そしてテレビニュースの取材も受けたのでした。
 なぜこんな事になったのでしょうか。ちょっとした「物語」がありました。次のページのニュース記事の中にヒントがあります。辞書を引きひき読んでみて下さい。
そして私(菊池)に質問して下さい。卒業までに話す機会があれば....。
 そしてこの時,私がネイティブな英語を聴き取れて,自由自在に話せたらキットこれをきっかけにもっとおもしろいことになっていたでしょう。 みんなには特に語学 英語に限らず日本語以外の外国語を勉強しておくと良いことがあるよ と言っておきます。
 大学に行くと理科も洋書を読むことになります。

※この文章は3年生の授業の中で配布して解説しました。

 



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