2001/12/17

実験! 52歳からのランニング

目標 78歳までフルマラソン42.159qを制限時間内で走れる体力を維持する。2003/5/19

この実験を始めた動機
ランニング徒然なるままに
大会の記録


この後は今時はやりのWEB.LOG
ブログを使ってみる ことにします。
2006年(平成18年)1月5日
◆2006年(平成18年)1月5日正月早々かなり気合いが入っています。昨日までの走行距離が78q。本日も10キロ走る予定だから,今まで体験したことのない練習になっている。体と相談しながらだけれどまだ休み中だから。でもこの4年間での初体験。そして練習メニューも工夫して変化に富んでいる。
◆2005年(平成17年)8月19日(金)走り続けると言うことは,走ることができる体を維持しているということです。当たり前だけれどもちょっとした不注意で怪我をしたり,事故にあったり,病気をしたりしたらもう走ることができない状態になるのです。
 ちょっとした不注意で自転車でハデに転倒し腰を強打していまい反省しきり。まだ痛みは残っているのだけれども走るという動作に対しては痛みは伴わない。本当に骨折とかでなくてよかったと思うけれどもこの後のランニングにどのような影響が出るのか,これも「実験」の一つになりそうだ。 しかし昨日の下田での「強行サイクリング」でも腰の痛みも感じずにできたことで少し明るくなってきた。
◆2005年(平成17年)7月27日(水)先日初めて走ることについて学ぶために国立五輪記念青少年総合センターに出かけた。ランニングクリニックという催しだ。そこの講師の方 失礼だけれども60歳を過ぎておられて見かだけでこの方が本当に講師かと思っていました。ところが講習が始まりその方が自ら走り教えてくれる場面でその走る姿のかっこうよさを見て流石だと思いました。箱根駅伝も走ったことがあると言うことでユーモア溢れた語り口が大変優しく大いに勉強になりました。
そこでPPK(ピンピンコロリ)と生きたいものだというような話に行き着きました。
◆2005年(平成17年)4月1日(土)明日いよいよかすみがうらマラソン。最終調整の土曜日ですが娘がランニングするということでサポート。
常々美容健康ダイエット等々で悩む若い女性にランニングをお勧めしたのですがなかなか直接サポートして走りながらと言うことはできない。
そうだ家の若い娘にランニングを勧めようと先週あたりから誘っていた。少しその気になってきた彼女が自分から走りに行こうと言いだした。本日は走らないで明日に備えようと思ったけれど,予定変更。決して強制せず1キロ走って休みを入れて気持ちの良い朝を体験しただけでok。
 コンクリーとの道だけでなく土の上を走るように勧めると「土の上気持ちよいね!」土の上ランニングが気に入ったようです。来週ももう少し長くやることにしました。ランニングしながらの娘との会話父親としては大変貴重な時間に思えました。 今は亡き父親が私の姉と一緒に公園を走っている写真が残っているがその時の父の気持ちと同じだろうなぁ
.....
◆2005年(平成17年)4月10日(日)目前に迫っているかすみがうらマラソンに向けて調整している。今日はつくばのゆりのさとという温泉場にみんなといったついでに坂道トレーニングができた。かなりハードだったけれどすばらしいお花見ランニングとなった。ただ車の多いのにはまいった。
早朝3時30分起床 10キロランが定着してきた。飲み会とかいろいろな行事で走る時間がとれないのが残念。
◆2005年(平成17年)2月28日(日)また教訓的な失敗をしました。
夜ランニングで張り切っていたのにチョつとしたスキに体調を崩しました。そして回復したと思ったら仲間との交流であまりに楽しく飲み過ぎて二日酔いこれでまた調子を崩しました。月200キロ以上を走るということは体調だけではないところでもリズムを崩さないようにしなければならないのですね。大きな楽しみを逃してしまう。反省の16日間でした。
◆2005年(平成17年)2月6日(日)夜ランニングが定着してきた。
夕食後走るのです。10キロ。寒い中夜10時近くスタート。懐中電灯片手に完全防寒。そのためには夕食をよく噛んで腹八分目そしてビール抜き。よく眠れる。食事がさらに美味しい。と夜ランニング快適です。
久しぶりのビールがまた美味しい。
◆2005年(平成17年)1月2日(日) 午後4時半過ぎ走り始めた。運動公園に着く頃もう日も沈み暗くなってきた。回りを見渡して思わず声をあげた「あっ富士山だ!」何という気持ちよさ。
 
・昨年は26日にソケイヘルニアの手術をして1日新宿の病院で過ごした。その後は安静。1月5日に医者に行った。今年は12月27日から今日1月2日まで連続してランニングができている。この3日間は10キロラン。
 昨年は無謀にも100キロマラソン完走を目標にしてその目標をクリア
できた。55歳の9月だった。この実験はできるだけ長く走れる事を願っての実験だ。100キロは体にとってはハード過ぎて健康には良くないことは間違いない。それを承知でこの肉体の限界,やる気の限界に挑戦
することに意欲を感じているというのはどういう事でしょう。
 今年は100キロマラソンを1回以上完走して100q以上のランニング
ができるのか見極めます。そしてフルマラソンで3時間台を出せる練習をすることを目指してみよう。月間200qラン。
◆2004年(平成16年)12月11日(土)久しぶりの運動公園で練習した。今日は初めて自転車によるトレーニングも入れてみた。自転車で14q走行後7.5qのランニング。牧さんと待ち合わせで測定器を渡す。
◆2004年(平成16年)10月12日(月) 今月は目標を300キロ。連休が多いし,チャンスかと思ったらとんでもない台風がくるはそれが去って台風一過の青空と思ったらまた雨。今日は20q走る予定だったけれど雨で止めました。200qを超えることができるのか。現在80q。
◆2004年(平成16年)10月1日 ウルトラ100qを完走してランニングライフは益々テンションが上がってきました。
◆2004年(平成16年)9月5日(日)いよいよウルトラ100キロに向けた調整に入っている。今日は約20qを走る。途中で坂を何度も上り下り気持ちだけ丹後のコースはアップダウンが大変そうなのでその対策。
◆2004年(平成16年)8月29日(日)第46回鶴沼ウルトラマラソン52.7qを完走できた。この完走は特別にうれしかった。
◆2004年(平成16年)6月20日(日)走る時間が欲しい。昨日は夜間
3q 娘と走った。おしゃべりしながらのユックリラン。貴重な楽しい一時だ。
◆2004年(平成16年)5月8日(土) 久しぶりにLSDで23qコースを走りました。23q+7.5q=30.5q 55歳になった記念ランニングなんて理由をつけて本当に気持ちよい天気で回りの景色と道ばたの野花を見ながらのランニングが楽しかった。キロ表示のペインティングか薄れてきたけれどしっかり読み取れたのがうれしかった。
◆2004年(平成16年)4月1日(木)3月は12日まで36qしか走れず。そして25日までチャンスがあればいつでも走る気かあったのに時間が取れずに走れない。その間にのどを痛め体調不良で走れなかったのもあって大いに反省した。もう深酒はやーメタ。しかし26日から31日まで平均して毎日10キロ走ることができて3月の走行距離は100.5キロ
でした。4月の霞がうらフルマラソンで快走して完走するためしっかりと練習をしてのぞみます。昨年のリタイアの雪辱をはらします。
そして今年の目標100キロウルトラマラソン参加 完走への足がかりにします。
◆2004年(平成16年)2月8日(日)本当にうれしい日となった。
新しい靴 新しい帽子 そして新しいシャツと今回初めてタイツをはいた。短足の小生には似合うはずがない,娘達はランナーらしく見えるとか言って励ましてくれたけれど格好良いとは言わない。しかしいろんな意味で体をカバーしたいということで健康安全第一を形でも表そうとこだわった。はき始めたら止められないという人がいたが,うーん実に快適。
快適ランに欠かせなくなりそうだ。どんな恰好をしてもだれも振り向いてくれないから怖いものなしだ。   
◆2004年(平成16年)2月1日(日)今日は午前8時過ぎからスタートできた。風も弱く,かなりよい条件だった。毎週5.68キロコースの周回コースを一つずつ増やして様子を見ている。今日はいよいよ5周というと
約30qになる。無理をしない,ユックリランを肝に銘じてのスタートでした。時計を見ないで,自分の快適なペースを維持する努力をする。前をウォーキングする人がいると抜こうとするが,場合によっては歩いている人より遅くても自分のペースは崩すまいこんな気持ちでランニングを続けた。私を抜いていくランナーがいた,ご挨拶をして自分のペースは崩れなかった。以前の私だとキッとペースがあがってくるだろう。
でも気がつくと5キロを過ぎると,体も温まり,走り始めとは違う快適ランのペースができていた。4周を過ぎた少しずつ足の感じが違ってきたが
痛みが全くなし,手術後の違和感全くなし。そして5周プラス1.5キロ
30qを快適に痛みなしで完走しました。ほんとうに今日のランニングは
うれしかった。その後,ぐっすりの睡眠で回復したけれどやはりかなりの疲労だったようだ。   来週 守谷マラソンのスタート台に立ち そして完走できる可能性が出てきた。 快適ランの条件に 痛みがないことを加えます。
◆2004年(平成16年)1月25(日) 土日でユックリランも調子に乗ってきた。前回よりも距離を伸ばした。3周を4周にのばした。
周回コースはユックリ長時間ランには大変よい。
いつでも止められるし,車の中に食料を並べエイドステーション替わりにできる。身軽に走れるのが快適ランの第一条件だ。

 私なりの快適ランニングの条件
@走る場所が気持ちよい(何の気兼ねなしに走れる )
A時計を見ない。(時間を意識したとたん走りが拘束される。私たち団   塊世代は揺りかごから墓場まで競争と言われた。だからすぐ競争の  意識にすぐ支配される)
B一人で走る。(自分のペースで走るためには一人が一番。でもみんな           で走る喜びも快適なランニング。)
C痛みがない。(痛みがあったら快適なはずがない。しかし痛みがあっても走る場合もある。距離が長くなると,痛みを少し我慢すると消えることがある。足が慣れるための信号なのかもしれない。でもその痛みがマスマス激しくなるときが怖い。 )
◆2004年(平成16年)1月18日(日)新春マラソン大会を横に見て走った。下の娘が入賞した 上の娘は一番最後から2番目だった。そして今日走る子供たちと親を見た。親子マラソンで子供を引きずるように走り勝ちを目指している親子。息づかいも荒い子供に頑張れ頑張れしか言わない親。自分もそうだったのなあ。子供に抜かれながら気持ちよく走る私は,これは多くの子供にマラソン=苦痛を教える場になっているかもしれないと思った。部活で参加を無理強いされている生徒もいる。
「日本に走る文化を!」こんなスローガンが頭に浮かんだ。ユックリ自分のペースで走る喜びを若い人に教えたい。
 今日は3周 異常なく走れた距離にして17.04キロ。このくらいになると水分補給しながらのランニングとなった。足の痛みなし 手術後の患部の違和感なしでランニング後のバナナが美味しかった。
 しかし,このくらいになると後からの疲労感がどっとくる。
 さあ来週も通勤ランで少し「稼いで」土日のランニングにつなげたい。
左足を軸にの走りがいいようだ。 
◆2004年(平成16年)1月17日(土) 本日 周回コース(5.68キロ)を2周走ることができました。500メートルごとにボディチェック ランニンク゛障害後の練習再開でもあるので右足の痛み 傷口の痛み ボディ内の感じに精神を集中しながらユックリラン 時計を忘れてしまったのですが,それがよかった。時計を見ないで走るといいですね。自分の楽な走りが保てるようです。 全く痛みなし,違和感なしで着実に回復しています。  今日のランニング画期的かもしれない。休みなしの10キロ以上で足の痛みもなかった。先週の土曜日のランニングでは4q付近から右足に痛みを感じ始めた。今週は通勤時もユックリだけれどもできるだけ走る姿勢をとった。そして今日は自分の利き足が右だから,左に軸足を移すような感じで走ってみた。ランニングのフォームによっても痛みと関係しているのではと考えたからだ。今日は痛みがなかった。
 快適に走り続けるにはどうすればよいか,工夫をしよう。
このランニング日誌を読み返してみると,病院に行くような痛みを感じる時は必ず,むちゃくちゃな走りをした後になっている。からだが無理するなと訴えているのだ。そして必ず右足が痛む。ランニングフォームと右足の筋肉をつけることで克服できるのか。研究しょう。
◆2004年(平成16年)1月7日(水)お久しぶりです。
本日より ウォーキング開始。通勤1.2q×2 自転車2q×2(坂道は降りてひく)2月8日(日)守谷ハーフマラソン完走を目指してスタートです。

と威勢のいいことを言っていますが,昨年の12月26日の手術の2ヵ所の傷跡の腫れはまだ引かず,痛みも少し残っています。でも1月5日の診察で「先生!昨日痛くて眠れなかったんだけれど」「うーん もう痛みがひいてもいい頃ですがね。」といいながら体の中をエコーで検査。「中は異常なし。痛みと腫れも必ずなくなります。」とえらく自信をもっていうのでした。 今日もニュースで手術のミスが報じられていたけれど,正直なところ,麻酔から覚醒して,手足がちゃんと動くか。ちゃんと話せるか。おしっこがちゃんと出るか。など心配だったのです。それが1日入院してすぐに翌日には歩いて自宅へ帰れて,先生が経過は良好というのだから信じるしかない。   逆に自分の体が再びランニングできるようになるのかの実験としては興味深いものになるでしょう。

 それにしても1回目の手術は8月の26日から1ヵ月ご9月28日にムチャクチャトレーニングでランニング障害で走れなくなり,その過程で再びソケイヘルニアの再発が11月15日に確認されて再手術。
こんな経過をたどっているので,1ヵ月後の守谷ハーフマラソンのスタート台にたてるか,たてたらどんな走りをするか,慎重に自分の体と相談しながらの調整に入ります。私のランニング人生にとっておおきな1ヵ月になりそうです。これで再発したらランニングをあきらめなければならないかもしれません。

【こぼれ話】 同じ手術を違った病院でうけた。1回目はストレッチャーに乗せられ長い病院の廊下を運ばれた。2回目は自分の足で手術台にあがった。一回目は腰からの腰椎麻酔で局部麻酔2回目は点滴箇所から麻酔液がは入りいつの間にか眠らされていた。2回目は手術室に軽やかな音楽が流れていた。そして  「心拍数か少ないですね。何か運動やっていますか。」と看護婦さんに聞かれた。このとき得意げに「走っています。」と言ったのでした。
◆2003年(平成15)11月16日(日)右足の痛みが完全に消えました。杖で歩いていたときのあの痛みが嘘のようにないのです。10メートルくらい走る格好で歩いたりランニング再開に慎重に体の様子を見ています。今年はランニングはやらないでもっぱらウォーキングで体調を整えます。本当にまたフルマラソン ハーフマラソンのスタート台にたてるのか..練習再開をいつできるのか ドクターにも相談しながらきめます。
来年の2月ころかなぁ。11月15日(土)新宿にある専門医に診てもらいました。
 今日 東京女子マラソン あの日比谷公園から国立競技場までの10キロ 5月18日に走ったコースが入っている。高橋尚子選手がゆとりの
トップゴールかと思ったが28qあたりでおかしくなってきた。
 苦しそうにゴールにたどり着いた高橋尚子サングラスをとったとたん笑顔になる。これがなんか気の毒だ。ユックリ休ませてあげればよいのに
無遠慮にマイクが突きつけられる。優勝した選手をそっちのけにして高橋 高橋 これもおかしな事だ。
  ともやさんの 投稿者:陽気なアスリート  投稿日:10月11日(土)22時46分25秒 を引用させてもらいました。
私への言葉と受け取りました。
 ともやさんらしいレース展開をして欲しいですね(^-^)トライアスロンは80代まで楽しめます!45才〜67才までのトライアスリートにアンケートを取った結果があり、その中で加齢による体力低下は科学的トレーニングで防げるとありました。心拍管理や筋トレ、年齢を重ねたアスリートは科学的な知識を駆使したトレーニングにかえている人も多い様です。ストレッチやマッサージを欠かさない事や、効率的で楽な動きを体得して、体力が落ちた分をある程度カバーしてる人も増えてきました。気分が乗らないときは休む事や、疲労の前兆であることを理解し心の調子もチェックすることが大事の様です。何事も無理は禁物で練習計画は体調に合わせてフレキシブルに変更する事なんですね。以上トライアスロンジャパンより抜粋しましたf^_^;私も、♪かる〜く腕を振り〜から再出発するかなぁ〜(^_^)v 私のBIKEは風化寸前だあ〜まずはそこから手入れしなくちゃ。 (高石ともやさん 応援ページの掲示板より )
◆2003年(平成15年)10月19日(日)
少し明るい気分。特に本日(日曜日)の朝の寝起きの右足の一歩にほとんど痛みを感じなかったのがうれしかった。歩き始めるとまた少し痛み始めるが我慢できる。
 今日は自宅の階段も普通に下りることができいよいよ杖をはずして行けそうだ。  
 今日の青空と自分の気持ちが「共感」して明るい気持ちになった。
そして隣人のランナー ケンからメールが入っていました。自分も足を痛め今日はコースの測定をしたいと。 私は自転車にのり ケンに測定してもらって おしゃべりしながらの約8キロ歩きました。  平和祈念マラソンが楽しかったこと 「また来年お願いします。」といはれました。そして手賀沼マラソンへの調整をしているとやる気満々だった。 
じっくり休養し,この私の失敗が生きるようにホームページでもできるだけ詳しく痛みの様子 回復の様子など記録にとどめたいと思っています。この調子だと 半月板損傷の可能性はなくなり 慢性的な痛みにならないように今回は,慎重に回復への調整をしていくつもり。

 年内は,大会に出ないでゆっくりのランニングと水泳 自転車など組み合わせて体力作り など まだわからないのだけれど,明るい見通しでいろいろ考えられるようになってきました。本当に再び走れるようになったときは感動ものです。

◆2003年(平成15年)10月13日(月)
 土日月の3日間 家にじっとして右足を休めた。

10月9日(木)都心の病院へに行きました。激痛で歩くのがかなりきつくお茶の水にある病院にやっとたどり着きました。
 その医師も骨に異常なしだがその回りの腱とか半月板が損傷されている可能性もある,もしそれなら手術しなければならない。などと脅かされました。イヤ本当にそうかもしれない。骨に異常があるから痛むのならむしろ安心なのに!骨は2つの病院のレントゲンで異常なし。
 もうしばらく様子を見て見ましょうと,「膝の軟骨の中に麻酔とステロイドを入れてみましょう。」と言いながら医師自らからブスリと注射を打ってくれました。 この注射に望みをかけました。これをキッカケに好転してほしい。その翌日から再び車通勤。朝4時起床,2時間かかりできるだけ右足を使わないよう徹底した。もちろん杖も使って今まで以上に右足カバー。  注射の効果が1日は続くとお医者さんが言っていた。
 11日の朝 注射が効いているらしく今までのようなイテテェの痛みが少し和らいだでも痛い。12日注射効果も切れているはずの朝。恐る恐る立って右足に重心をかけた。痛みは消えていないが昨日と同じくらい。痛みは増していない!少し明るい気持ちになってきた。今日は第4回東京夢舞いマラソン 4000円出してエントリーし華々しく都心を42.195q走り抜く予定でした。もちろん参加中止。応援参加でTシャツだけでももらいにいこうと思ったけれどもそれどころでない再び走れる体に戻すために大事なときと認識 ジッとしていた。
13日 痛みは増さないで少し和らいできたことをハッキリ自覚。これはうれしい。まだ階段を下りるのが不自然。焦らない焦らないユックリユックリ回復しているかもしれないと信じた。

 土日をこんなユックリ過ごしたのもひさしぶりだなぁ。

半月板損傷の症状から遠ざかっているようだ。まだまだ油断はできない
来週も早朝車通勤で
◆2003年(平成15年)10月6日(月)  
9月28日からさんざんな日々。ションボリの日々でした。何と杖を使って通勤したのです。そして10月4日(土)授業参観日を早退して医者に。
「骨に異常なし,水もたまっていない 熱も持っていない 痛みがなくなるまで走らないで。」という診断。しかし痛み止めを飲んでも痛みが和らがず,元気なし。さっさと歩く人を尻目にユックリユックリと歩くのが精一杯。 78歳までフルマラソンを走れるように!何てとんでもない目標。
歩くことさえままならずこの実験が早くも挫折してしまうのか。

 こうなったのも当たり前。ちゃんとした理由があるのだ。きっと参考になると思います。こんな馬鹿なことをしたのです。

 9月22日((月))ドクターストップ解除 そして24日から朝5:33取手発 南千住駅からランニング 190メートル校庭を22周 5.3q
25日6.9q 温水シャワーを使えることがわかり大喜びますますランニング環境が整ってきた。 27(土)13q 非常に調子よくやる気十分。
28日(日)早く起きて土手に 今日は思い切りやるぞと走り出した。
5キロのタイムトライアル 90パーセントで走りその後走り続けて途中の坂道200メートル上り 下り 5本 そしてまた走り また途中の坂の上り下り そしてインターバルと称して,時々全力疾走そしてゆっくりランで10キロ変に来たら右足に痛みを感じ始める。そして走るのがつらくなり
歩き始めた。空は青空 少し痛いが久しぶりにハードにやれたからいいやと自己満足で慰めたがその痛みは今までとは違う感じになってきた。
ユックリ長くの走りでの痛さではなく 自分として初めての坂の上り下りのトレーニング インターバルと少しトレーニングらしくやったのでした。

痛みが少しずつ緩和するだろうと思っていたらとんでもない。
ランニング障害辞典という本を熟読しました。私のやったことはムチャクチャでした。    「スポーツを安全に行うには,そのスポーツの特性を医学的にも科学的にも理解し自分にあったものを見いだしていかなければならない....」出版されて12年以上経っているがいまだに増刷している本だ。
「この12年の経過でランニング障害の考え方は基本的には変わらない。すなわちランニング障害はそれぞれにとって走りすぎによる障害であり,練習内容を含めて発生原因を一つずつ改めながら自分にあった適量を見つけることがその解決策である...」

 「私の痛みはランニング障害によるものだ」と認識しました。
自分にあった適量もまだ知らないのに,入院手術から解放されドクターストップ解除を口実にメチャクチャな量とハードなトレーニングで自分の足に悲鳴を上がらせてしまったのです。 

 非常に多くのランナーがこのような障害に苦しんでいると言うこともデーターを通して知りました。そして場合によっては「ランニングをあきらめなければならない」障害もあることを知り自分の無知無謀さに反省反省。   
 この痛みが幸いにして克服できたなら本当の自分にあったランニング生活を構築したいと思うが....全く バカだなぁ 俺は 家族も呆れています。
◆2003年(平成15年)9月22日(月)手術後初めて病院へ。術後の診断。恐る恐る診察室に入る。担当医が手術跡を見て「きれいいきれい!」医者は嬉しそうに言うが「何がきれいなんだよ。」という気持ち。これからの不安を医者に言うが「大丈夫 今月くらいは静かにしていたら。」

 あまり深く考えずにドクターストップ解除!ということでいよいよまた走れるぞとやはり嬉しい。
 9月23日 台風通過してすばらしい朝。気持ちよい空気と青空。
ランニング姿になりウキウキとして,ユックリ歩くようなランならいいだろうと自分勝手に解釈し利根川土手に向かった。何と気持ちの良いことだろう。このままダウンしても悔いなしだなあ..何て考えながら いつの間にか10キロ以上ユックリランをしていた。ああ気持ちよかった。
 筑波に向けて走り出すぞー。

   54歳でソケイヘルニアの出術をしたランナーがどこまで走れるのか。再発しないのか。ランニングとソケイヘルニアは関係ないのか。など
不安を抱えながらのまさに体をかけての実験始まりです!

 ソケイヘルニアについての経験談 医療情報をもっています。
心配な人は連絡して下さい。
◆2003年(平成15年)9月6日(土) 走り続けられているときが私にとって一番生き生きとしていられる状態だと言うことをまた身にしみて感じさせられる事態に直面しました。
 8月3日の大会も無事終了しこれからのつながりを期待させる大会に自分としてランニングにさらに気合いが入る夏を予感しました。ヨーシ8月24日の鶴沼マラソン52qへ準備して9月 10月を走り込んで11月30日(日)の筑波マラソンで自己最高記録に挑戦しよう。できたら3時間台の記録も可能だと意欲満々でした。

 ところがです!  前から少し気になっていた下腹部の僅かなふくらみまあ一応医者に診てもらおうと8月8日出かけました。

 何と ドクターストップ。ソケイヘルニア 入院 手術しか方法はない。
「エッ 走れなくなる?」愕然としました。目の前が真っ暗。

 8月25日入院 8月26日手術  
◆2003年(平成15年)8月3日(日) 昨日8月2日(土)
第一回利根川平和祈念マラソン大会が開催されました。
私のランニング生活でホノルルマラソン出場以上に意義深い大会となりました。自分たちで作るマラソン大会。

◆2003年(平成15年)5月18日(日)江戸幕府開府400年記念 東京シティーロードレース2003のゴールに立てた。これだけでうれしい。そして初めての10キロレースで都心を走り抜けた気持ちよさは今までにない刺激。もう来年の事を考えている。必ず出よう。
◆2003年(平成15年)第13回かすみがうらマラソン参加。発のリタイア
◆2003年(平成15年)3月23日(日)第6回東京・荒川市民マラソンに参加。

◆2002年11月24日(日) 11月4日ランニング再会 そして通勤ランニング往復6.2キロも調子に乗ってきて12月7日皇居フルマラソンに挑戦するつもりでいたけれども,ランニングをストップしている。また走れる日迄ランニングの心は燃えているのだが。

◆2002年9月14日(土)明日いよいよタートルマラソン大会
この大会から始まった。あれから1年 1年ぶりの仲間と出会える。
昨年の9月10日から私の生活は変わった。金町〜亀有間の通勤ランニング開始。
そして今年の9月から金町〜学校間の通退勤ランニング 6.2キロ そして調子よいときと時間にゆとりがある時は学校〜松戸駅7キロのランニング。ランニング中心の生活がエスカレートしてきた。鶴沼での心地よい完走でさらなる限界への実験を
続けよう。ケガをしないランニング生活が続けられますように。
◆2002年8月25日(日)「第42回夏の鶴沼ウルトラマラソン大会」参加
           完璧完走!!! 
◆2002年8月11日(日)危険な実験 早朝ランニングのつもりが起きるのができず日がかんかん照りつけるのを避けずに予定通り23キロコースを走り始めた。
水2リットル おにぎり2個 各種補助食品 チョコレート 保冷剤も使ってできるだけ低温を維持しようとした。風が少しあるがぐんぐん温度が上がっていくのがわかる。前回は7q地点で水分エネルギー補給を10q地点にそして2回目の補給を19q地点にした。そこまで前回より走りは快調だった。ところが19qで水分エネルギーを補給して走り始めたがなにかおかしい。全然走る気がしないのだ。
 大利根橋を歩いてわたり,そこからおりて日陰の駐車場で腰を下ろし一休み。なにか力がでない。これが熱中症の初期症状なのかと勝手に思ったりした。持っていた水分全部飲みそれでもとにかく冷たい飲み物が欲しい。近くの自販機から飲みたいものを飲む。また飲みたくなる。そしてアイスキャンデーを続けざまに食べる。
きっと体が求めているのだろう。    あぁあぁ−また無理してしまった。水分が少なかったら危なかったかも。とにかく日陰のない高温地帯を走り続けるのは無謀だ。なんとか回復し反省。でも足は前回より快調になった気がする。

◆2002年8月8日(木)右足が完全復帰しました。本日早朝4時30分頃起床。今年の夏休み初めての早起きでした。遠足気分でリユックに食べ物 飲み物を詰めて,いざランニング。家族にも呆れられるほどかなりはまっている。朝日が登り始めるそれに向かって走る。イヤぁ−青春ですね。田んぼの横を走る。稲のにおいがここちよし。土手に進むともう人の姿 すれ違うたびに「おはよう御座います」これも心地よし。空の青 水の青 そして木々の緑が目にしみる。牧さんと作ったオリジナルコース23キロはすばらしい。久しぶりの長距離をゆっくり走りました。50キロを走れる体に近づけていきます。8月25日を意識している。

◆2002年8月4日(日)二人の中年男が暑い日差しの中黙々と走りながらときどき止まっては何かをしている。何人かの人に「測定ですか」と声をかけられた。
ランニング仲間の牧さんと1日がかりでランニングのコースづくりをした。5.6qの周回コースと23qに及ぶすばらしい長距離コース。1キロごとにしっかりとペインティングしました。これからのトレーニングが楽しくなりそうだ。一人ではできない大仕事でした。
ご希望の方にはお教えします。かなり正確です。

◆2002年7月31日(水)牧さんからのお誘い。『第42回夏の鶴沼ウルトラマラソン大会』 52.07qにエントリーすることにしました。皇居マラソン以来の不調を吹き払い,フルマラソン42.195q以上の距離を走ることを目標にします。
もちろん完走をめざしたトレーニングをしますが...とにかくゆっくり長時間走り続けることに挑戦しています。1キロ何分でなく何時間走り続けられたかということで走るとスゴク走りが楽になる見たい。足の痛みはまだあるが余り癸にならなくなってきた。ユツクリ走ればだけれども。

◆2002年7月21日(日)本日12.4qを走れた。2キロあたりからいつもの痛みを感じたが無視。痛む場所が少しずつ変わってきた気がするが気になる。ただ2周目に痛みを押して全力疾走ができたのがうれしい手応えを感じた。以前は踏み込んでも力が入らなかった。「イテテテ」と右足をかばう走りになってしまった。でも今日は外から見て右足をかばっているような走りにはならなかった。本日までの走行距離93.5キロ。31日まで200qにどこまで近づけられるか。そして足の痛みが
どのようになっていくのか注目したい。早くも 5月19日から2ヶ月。「回復しました」と宣言したい。 その日も近いかな。

◆2002年7月14日(日) 7月6日近くの整形外科に診てもらう。膝から上の大腿
部のレントゲン写真もとるが異常なし。
 走る仲間 牧さんに相談 「自分もそういうことがあった サポーターをつけて走っているうちに痛みが消えた」と。この助言にまた元気が出てきた。早速サポーター
をしてランニング再開 7月6日 6.2キロ 7日 10キロ そして通ラン3.1キロ
 そして昨日 今日 7q 再開して52.8qの走行。痛みがあり快適なランニングとはなっていないがしばらく続けてみよう。
◆2002年6月24日(月) 18日からまたランニングを止めている。
まだ快調な走りができず中途半端は止めて完全休養をしばらく続けることにします。何かランニングがないと元気が出ない。9月15日(日)タートルマラソン全国大会
で走れることを目標として,ランニングを始めた原点に戻ることにする。
 この辛い気持ちをしっかりと味わおう。(と自分を励ましています。)
1年も経たずに頓挫。これを乗り切れるのか?

◆2002年6月16日(日) 6月8日以来ランニングを再開している。毎朝の通勤ランニング(3.1q)も始めた。しかし疲労 過労状態の時は亀有からのバスに切り替えている。(2日間) 本日河川敷の自分のつくったコース6.2キロを走り少しずつ距離を伸ばしているが,最初からの右足の痛みは消えかかっているが,まだ本調子ではない。焦らず完全回復を目指してのランニングとなっている。

反省
@練習不足の状態で長距離は走らない。
A余り気分が乗らないとき走らない。
B走ってからすぐに練習できるようにアミノ酸など不足しがちのものを取り入れる。
C月間走行距離200qを目指す。
D毎月大会参加を止めて参加目標を体調に合わせて設定する。

◆本日 整形外科医に診てもらいました。2002年6月8日(土)
近くのかかりつけの総合病院にいこうかと思いましたが,お医者さんにこだわりました。テーピングをしながら走る人 そんなにまでして走らなくてもと思っていたけれど,そんなにまでして走りたい気持ちがわかってきました。走ることを知らないお医者さんに診てもらってもせいぜい「もう年も年なのだから,走らないで無理しない。」といって塗り薬でも出しておしまいになるのではと言う独断的偏見で,市民ランナーのお医者さんに診てもらおうと考えました。なかなかそういう人はいないだろうけどなぁ と思っていた。もしかしたらできるかもと思ったことを実行してみた。
 雑誌「ランナーズ」で 
走る整形外科医 ドクター小嵐のランニング障害クリニック 
のページがありました。
 早速ランナーズに出ている電話番号に電話。そして編集部の電話を教えてもらい
そこで小嵐先生が診察しておられる高田整形外科の場所を教えてもらいました。(私の家から遠いけれども,行ける場所だ。)私と同じような方がいるようで待たせずすぐに対応してくれたのがうれしかったですね。貴重な土曜休みでしたが,その日は午前中診察していると言うことそして小嵐先生が診察できることを前日に確かめて一日がかりのつもりで出かけました。早く走り始めたいという思いを胸に秘めてです。
 小嵐先生にお会いしました。名前からのイメージそして私より年上で想像していたイメージと違っていた。 一言で 若々しい!さすがウルトラマラソンを走るランナー ランニング日誌もお見せした。
「去年から走り始めたの!?3時間台でますよ」「皇居マラソンよく行きました。」と先生。
「ホノルルマラソンで81歳の男性が走りました。私が幾つまで走れるかという実験のつもりです。」と余計なことまで話してしまった。
 こんな会話は走らないドクターとはできない。それだけで安心してしまう。

 レントゲンの結果は 異状なし そして痛くなるまえに止めれば走ってヨシそして塗り薬も何もいらないと言うことでした。
「先生 走るためにテーピングしたり塗り薬を塗ったりしている人がいますけれど
きくのですか」「一時的にはねでも一番効果的なのは距離を走ること。フルマラソンなら月間200qは走りたい」 ということでした。

ひとまず,この痛みのようすをみながら徐々にランニングを開始しょうと元気が出てきたのでした。

 うずうずして,帰宅して夕方久しぶりに河川敷に行って走ってみた。
痛みはまだあるが,何というのだろう小嵐先生の力というか,その痛みが何故か
だんだんラクになっていきそうな感じになってきた。また調子に乗って無理しないようにしょう。
 【変わった生活をまた元に戻そう】

◆実験を修正 皇居50周マラソンで初めて挫折 35qでストップしただけでなく
それ以降右足が走ると痛み正常に走れないと言う事態に直面している。
                            2002年5月19日(日)

長く走り続けるにはどうしたらよいのか。これがテーマ。ホノルルマラソンで81歳の男性が80歳代で一人。70歳代158人(男)12人(女) 50歳代2037人(男)
1158人(女)この数字を見て考える。まだ走れるのだけれども諸般の事情で参加できないと言うことでの参加者の現象なのか。無理をして走れなくなってしまった。老化で走れなくなった。他の病に倒れた。様々なドラマがあるのでしょう。
そこら辺の追跡調査みたいのがあったらおもしろいのだけれど。

まだ走り始めたばかりなので大きなことは言えないけれども,足の痛みを感じずに
走り続けるにはどうすればよいか,実験します。とりあえず1年間走り続けられるかに挑戦。             2002年1月27日(日)

◆2002/2/23(土)友とのランニング本日初めて,ランニング仲間( 牧さん)と走った。偶然走っているコースが同じだったのだ。ランニングしながらのおしゃべり。いつの間にか予定の距離を走ったが,もう一周と5.7qもプラスできた。仲間と練習これもなかなかいい。  

◆2002/2/17
夢が一つできた。教え子達とランニングすること。できたら私が主催してやれたらおもしろい。